聖ホセマリア

聖ホセマリア・エスクリバー(日本への夢~第3部)

初めての日本人メンバー誕生

来日したメンバーたちは、依然、言葉もよく分からず、習慣の違いによる苦労も多かった。

しかし、女子メンバー、キャサリン・パーセルには、1960年ローマでのご復活のミサで、エスクリバー師が話された言葉が心の中から消えることはなかった。

「キリストは生きておられます。キリストは復活されました。私たちはこれから様々な困難に出会うでしょうが、すべてはうまく行きます。

なぜなら、復活されたキリストと共に私たちは歩むからです。キリストといっしょなら、私たちにはすべてのことができるのです。

私は確信しています。1年以内にあなたたちは、私に手紙を書いてくれるでしょう。パドレ、神様はもう召し出しを送ってくださいましたと」

果たしてパドレの言葉は、1年を待たず実現することになった。

神戸港に出迎えてくれていた友人の一人、平井英子がその年の12月8日にスーパーヌメラリーとなった。そして、次の年の5月29日に吉津喜久子がヌメラリーになったのである。

長く長崎精道小中学校で校長を務めた中島紀子も、その2年後メンバーになった。

当時、語学が堪能でなかった中島はカトリックの教えやオプス・デイの精神を、言葉ではなく、彼女たちの日常生活を通して知った。彼女たちの真面目な、そして生き生きした喜びに満ちた生活を見て、自分が求める本当の平和、価値のある生き方が分かってきたのだという。

日本人が本当の幸福を見出せることが、エスクリバー師の強い願いだった。 キャサリンには、日本人がカトリックの洗礼を受けたり、メンバーになったりする度に、師の声が再び聞こえてくるようだった。

「あなたたちの勝利を完全に確信しています。あなたたちは主に、素晴らしい実りを与えるでしょう」

当時、キャサリン・パーセルは26歳。その後の26年間を日本で過ごし、晩年は母国アイルランドで暮らすことになった。

「1960年7月15日、日本の方々にオプス・デイを伝える道具になりたいという熱い望みを持って、26歳のとき来日しました。苦労もありましたが、日本での26年間は、私の最も幸福な時期でした

1986年には、健康上の理由のためにどうしても日本を去らねばならなかったのです。

でも、日本で一生の友人を得ることが出来て、とても幸せに思っています。

パドレが、日本や日本人、その習慣と伝統を愛することが大切だと教えて下さったのを思い出します。オプス・デイの精神は、各々の人、それぞれの国や文化にぴったりくるものですね。まるでよい手袋のように」

彼女は歳月を経ても、遠くアイルランドから、日々、日本への祈りを欠かすことはない。

『道』の出版

ジョセフ・レイモンド・マドゥルガ神父たちが、できるだけ早くやり遂げたいと考えていた仕事があった。

それは、ホセマリア・エスクリバー著『Camino』の邦訳版『道』を出版することである。

『Camino』は、1934年に『霊的考察』という書名で出版されて以来、現在までに世界50か国語に訳され500万部以上発行されている本である。

エスクリバー神父の霊的な考察が短い999の短文でつづられており、現代の霊的古典的名著としての評価が高い。日本人に、カトリックの教え、そしてオプス・デイの精神を伝えるために、日でも早く邦訳したい書物だった。

『道』の初版が発行されたのが、マドゥルガ神父が来日して2年5ヵ月後の1961年3月30日だった。

来日している者の誰一人として、日本語が満足に話せないし読めなかった。彼らがどのようして初版を出せたか、その経緯が面白い。

マドゥルガ神父は、横浜教区の保土ヶ谷教会の日野久義神父に邦訳を頼むことにした。

日野神父は、マドゥルガ神父がアメリカで知り合った高木氏の所属する教会の主任司祭だった。マドゥルガ神父との会話は、もっぱらラテン語で、スペイン語は少しかできない。

それでも、日野神父はオプス・デイの精神を気に入り、喜んで 『Camino』の訳を引き受けた。ある程度訳ができたところで、日野神父は病気をわずらい一ヵ月ほど入院することになった。

その病院に人のスペイン人シスターがいた。彼女も訳を喜んで手伝い、日野神父の退院する頃には、原稿はほぼできていた。

こうしてできた邦訳がどのぐらい原文に忠実なものか、マドゥルガ神父たちには分からない。

そこで、当時、マドゥルガ神父たちは大阪外国語大学で聖書を教えていたので、6、7名の優秀な学生に呼びかけ、芦屋市東芦屋町にあった「精道塾」で手伝ってもらうことにした。そのやり方が変わっている。

学生たちをほぼ2人ずつの3グループに分けた。そのグループごとに、マドゥルガ神父、アカソ神父、アルミセン神父がつく。

学生たちはスペイン語が分からなかったので、できた日本語訳を口頭で英語に訳してもらった。それを神父たちが、スペイン語の原文と照らし合わせてチェックした。学生たちは、キリスト教を知ることと英語の勉強ができるので、喜んで協力した。

こうして出版された『道』は、多くの人々に受け入れられた。
(邦訳は、改訂を重ねて数万部発行されてきたが、現在は再販未定で電子書籍の発行のみとなっている)

セイドー外国語学院

オプス・デイの信者は、普通の社会人同様、それぞれ個人的な専門職につく。が、協同で使徒職的な事業を興すこともある。

たとえば、日本では、1962年に芦屋市でセイドー外国語学院が始まった。

学院の前身は、1959年からマドゥルガ神父たちが芦屋市に借りていた日本家屋の精道塾と女子のための夙川スクールだった。

そこでの活動は、日本人に西洋の言葉や文化を紹介することにあった。英語、フランス語、スペイン語を教える教授たちは、独自の教授法を開発し、日々真面目で丹念な仕事をしていた。

併設するセイドー外国語研究所では、研究と研鑚を積み、オリジナルテキスト教材やテープ教材も開発した。

そのためか、わずかの間に、多くの大学生や社会人たちが活動に参加することになる。セイドー外国語学院の活動は、当時の日本社会が必要としているものだったからでもある。

当初両方合わせて400人の生徒たちが通っていたが、すぐに800人収容可能な新しい建物を持つべく第2期の計画を立てなければならなくなった。さらには、3年の間に1200人以上の生徒が通える建物に計画を変えた。

最後におこなわれた拡張工事は、さまざまな人々の寛大な協力によって行われた。彼らのほとんどがキリスト教徒ではなかった。しかしセイドー外国語学院の活動を知り応援していた。ある労働者は、一握りのお金を寄付した。それは彼の半年分の給料だったという。

セイドー外国語学院は模範と言葉による福音宣教の場でもあった。キリスト教に興味を持つ人には、個人的にカトリック要理を教えた。

その地道な活動を通して、洗礼を受けたり、さらによいカトリック信者となったりした日本人は非常に多い。

(2019年2月現在、学院は事業停止しているが、福音宣教や文化的で使徒職的な活動は依然、活発に継続している)