新約聖書

わたしは弱いときにこそ強いからです (コリントⅡ 12-10)

わたしは弱いときにこそ強いからです (コリントⅡ 12-10)

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

He said to me “My grace is sufficient for you, for power is made perfect in weakness ” So, I will boast all more the power of Christ may dwell in me. Therefore I am content with weaknesses, insults, hardships, persecutions, and calamities for the sake of Christ; for wherever I am weak, then I am strong.
(コリントⅡ 12-9~10)

使徒パウロのこの言葉の前には、次のような文章があります。

「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。

しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。

だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。

誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(コリントⅡ 11-23~30)

パウロは、人間味あふれる人でしたが、ここでただ単に自分の苦労話をしているわけではありません。

本当は、このような数々の苦難に耐えることができた強さがどこからきたのか、ということを言いたかったのです。

パウロは、自分を実に弱い存在だと思っていました。

弱いけれども、神によって強められたのだということも承知していました。

「わたしは弱いときにこそ強い」(コリントⅡ 12-10)

この逆説的な言葉は、自分の弱さを自覚し、神の偉大さにすべてを賭けた人の心の底から湧きあがってきた言葉です。

自分の弱さを知っている人だけが、神の強さを引き寄せることができるのです。

喜んで与える人を神は愛してくださるからです(コリントⅡ 9-7)喜んで与える人を神は愛してくださるからです(コリントⅡ 9-7) 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたと...