聖ホセマリア

聖ホセマリア・エスクリバー(日本への夢~第4部)

日本人女子留学生への配慮

エスクリバー師は、どこの国の人に対しても心濃やかに接した。殊に、ローマに来た日本人留学生へは特別の配慮をしていた。

日本女性に対してのエピソードを紹介しよう。

1960年代、最初の日本女性たちがローマン・カレッジに着いたとき、エスクリバー師は濃やかな心をもって彼女たちの世話をするようにまわりの人々に言った。

「日本の女性たちは、とてもデリケートな陶磁器のようですよ。彼女たちが気候や食事、言葉、ヨーロッパの習慣などに慣れるように助けてあげてください」

その配慮は、たとえば履物の細かい点にまで及んだ。

「彼女たちは畳の上をやわらかくふむという習慣をもっているのだから、最初の数日は、家の中を歩き回るのにスリッパを使えるようにしてあげなさい。彼女たちが私たちの硬い床に慣れるまで」

何も分からない外国で、はじめて生活する彼女たちだったが、エスクリバー師の父親としての愛情を知ると、心安らぎ、心配するものは何もなくなったという。

もう一つのエピソード。

西川美子は日本に帰国するとき、エスクリバー師に一言でも挨拶していきたかった。しかし、師はあまりにも多忙だったので会うことができず、仕方なく短い手紙を置いてローマを去った。

それから、一ヵ月後、ローマから仕事で来日したホアキン・アロンソ神父から呼ばれた。何事かと思っていると、驚いたことにエスクリバー師からの言葉を伝えられた。

「あなたの手紙を読みましたよ。私はあなたに100%の信頼をもっています。すべて、心配しないで、勇気を出して、日本にオプス・デイを行ってください。日本での広がりのために行動してください。父親として、あなたに祝福を与えます」

世界中の大勢の一人にしか過ぎない自分のような者をも、心にかけてくださるのか。師の大きな愛を感じ、西川は激しく心打たれた。

エスクリバー師の父親としての愛は、長い歳月を経た今も彼女を支え勇気づけている。

日本人男子留学生との写真

エスクリバー師が特別に日本を心にかけていたことは、男子メンバーにも当てはまる。

新田壮一郎は、エスクリバー神父にとって日本での待望の「長男」だった。彼は、後にマドゥルガ神父を継いで、日本の属人区長代理となった人物である。

1961年の終わりごろ現れた新田は大学生だった。英語の勉強目的で神父たちに近づく者が多い中、英米科の学生でありながら、彼は純粋にキリストの教えを求めていた。

アカソ・フェルナンド神父との日本語でのカトリック要理のクラスに毎週通い、その翌年の12月8日洗礼を受けた。しばらくして、日本で初めての男子ヌメラリーとなっている。

洗礼を受けて一ヵ月もたたない者がオプス・デイの信者になることは、これまで世界に例がなかった。

エスクリバー師は、後日マドゥルガ神父に「壮一郎は奇跡だ」と語っている。また、公に幾度も「壮一郎は私の長男だ」とも言った。新田壮一郎は、エスクリバー師が長年祈りと犠牲を捧げて誕生した日本人初の霊的な息子だったからである。

新田は1967年からローマに留学した。彼は26歳。エスクリバー師は65歳だった。エスクリバー師と初めて会った印象を新田は次のように語る。

「その時はちょっと挨拶をしただけ。しかし、パドレのあふれるような愛情を感じました。創立者という厳めしい雰囲気はまったくなく、とても気さくな好々爺、という感じでした」

二度目に会って話しかけられた時、新田は驚いた。エスクリバー師が日本について実によく知っていることにである。エスクリバー師はにこやかに熱意を込めて語った。

 

「日本人は、とてもよく働き、すばらしい徳をもった人々です。日本人がキリストのことを知っていれば、どれだけ偉大なことができるでしょう」

ちなみに、1967年11月26日の説教「聖性を目指して」(『神の朋友』312)で師は、次のようなことを述べている。

「昨日、日本の一求道者がまだキリストを知らない人たちにカトリック要理を教えていると聞いて感激し、また自分を恥ずかしく思いました。もっと篤い信仰が必要です。そして、信仰と共に、観想が…」

1年前からパンプローナにいた山本浩一、少し遅れてブラジルからきた日本人二世笹野克志と新田の人がローマで合流することになる。

エスクリバー師は、笹野のような日本人二世は日本に福音をもたらすに相応しい人々だと考えていた。

師が中南米の国々にカテケージス旅行に行ったときも、日本のために祈ることや日本への宣教を促した。現在、ブラジルなど中南米の国々から男女多くのオプス・デイの信者が来日し、貢献しているのは、師のこの願いがあったからだと言えよう。

ところで、新田、山本、笹野の人とエスクリバー師が写った貴重な写真が残っている。

当時、多忙で、しかも謙遜ゆえに写真に撮られることを好まなかった師が、特定の人々と並んで記念写真に収まるなど例外中の例外だった。それを可能にしたのは、新田の提案だった。

「もうすぐ浩一は留学を終えて日本へ帰国し、私はスペインのパンプローナへ移る予定です。ローマで創立者とこの人の日本人がそろうことは、もはやないでしょう。大変厚かましいお願いですが、パドレといっしょに写真を撮らせていただけないでしょうか」

この願いは、 間接的にエスクリバー師に伝えられた。

2週間後、エスクリバー師が彼らのもとを訪れ、「例外中の例外」が実現した。

1969年6月に撮られたこの一枚の写真は、エスクリバー師が日本人を特別に配慮していた証だと言っていい。

日本人女性たちとの会見

1970年3月のある朝、ローマのビラ・サケッティにおいて、ローマに巡礼に来た日本女性のグループとの会見があった。

彼女たちは人のグループでカトリック信者でない人もいた。来日していたアメリカ人のメンバー、ロレッタ・ローレンスが付き添い、ローマに留学していた村林祥子も参加した。

エチェバリーア神父と共に現れたエスクリバー師は、にこやかに微笑み話し始めた。

「日本はとても素晴らしい国です。私は日本に行きたいと、とても望んでいます」

エスクリバー師は、日本の様々な美しさや濃やかな生活習慣、庭園の手入れにおける勤勉さ、あるいは電気技術における優秀さなどを賞賛した。

それから「日本女性は魅力的ですね」と言い、しかしこれは自分が年寄りだから言えることですよと、笑いながら付け加えた。

「私は日本女性の微笑みが好きですよ。あなたがたも、しばしば微笑んでください。なぜなら微笑みをもって人に仕えることは素晴らしいことですからね。

神様があなたがたに贈られたすべての美点を他の人々に仕えるために役立ててください。世界中の女性に微笑みの素晴らしさを教えてあげてください」

そして、司祭として話を続けた。

「しばらくしたら、私はごミサをたてます。キリスト信者でない方にはごミサの価値がお分かりにならないかもしれません。しかし、ごミサは無限の価値をもっているのですよ。今日、私は日本のすべての方々のために捧げます。今、皆さんに祝福を与えましょう」

エスクリバー師は立ち上がり、祝福するために両腕を前に広げた。彼女たちも立ちあがった。ある者はひざまずき、ある者は頭を前に傾けながらも立ったままであった。

「司祭の祝福はよいことです。よいことだけを持ってきてくれる父親の祝福と同じですよ。主が皆さんの心と皆さんの唇にいてくださいますように」

そして、エスクリバー師は左手を自分の胸に当て、右手でゆっくりと刻みこむように十字架の印を宙に描いた。

「皆さんに一つ頼みたいことがあります。カトリック信者の人は、イエス・キリストに頼んでください。キリスト信者でない人は、自分の信じている超越的な方に頼んでください。一人ひとり自分のやり方で、私が善良で忠実であるように祈ってください」

そして、別れるとき、日本のやり方で深いおじぎをした。腰から上を深く折り曲げ、両手を膝にあてがって。