聖ホセマリア

聖ホセマリア・エスクリバー(日本への夢~第5部)

生涯に渡る犠牲

エスクリバー師の日本に対する特別な愛情は時を経ても変わらなかった。

それに関する他の証言も紹介しておこう。

長くセイドー外国語研究所の所長を務めたアントニオ・メリックは、来日する前1962年8月に、スペインのパンプローナで師に会っている。

他の誰かが「アントニオは、もうすぐ日本に行きます」と紹介すると、師は顔をほころばせながら十字の印をして彼を祝福し、言った。

「喜んで日本に行きなさい。日本人はとてもよく働く素晴らしい民族です。ただ、信仰がない。あなたはきっとよい仕事ができるでしょう。日本の私の子供たちは、農夫が5月の雨を待ち焦がれるようにあなたを待っていますよ。」

ローマに留学していた村林祥子も、1972年2月、エスクリバー師から直接に聞いた。

「日本は良い人たちがたくさんいる大きな国です。時が経ても、私が日本の人たちをとても愛し、日本のことを心に深くとめ、その回心のためにたくさん祈ったと、あなたはいつも言うことができるでしょう」

ときおり日本からローマを訪れる子供たちに、師は来日を懇願されることがあった。

しかし、「桜の咲く頃に行きたい」と答えることもあったが、ついに師は日本を訪れることはなかった。

どうしてだろう。
師がこれほどまでに日本に愛情を持ちながら、日本を一度も訪問しなかったのはなぜだろう。

17歳でアメリカから来日、その後京都大学で博士号を取得し、セイドー外国語学院の発展にも寄与したデイビッド・セル教授は、1972年に本部ビラ・テべレでエスクリバー師に会っている。そのとき、彼も思い切って願った。

「パドレ、いつ日本に来てくださいますか」

するとエスクリバー師は、次のように答えたという。

「日本に行くのは私にとって難しいことです。私はオプス・デイで、他の誰よりも従わなければならない者ですから」

師が日本に行かなった理由は、少なくとも二つあると私は思う。

一つ目は、このときセル教授に答えたように、オプス・デイ創立者としての従順のためである。

もし神様からオプス・デイを創立するように命じられていなければ、師は一人の神父として日本に宣教しに来ていたかもしれない。

しかし彼に任された創立者としての仕事は世界中に及び、日本だけを気にかけることはなかったし、本部のあるローマを離れることは困難だった。神への従順ゆえに、師は神の命じるままに留まったのである。

この理由以外に、もう一つの大きな理由があったと私は考える。これは師の深い内的生活と照らし合わせて考える必要がある。

おそらく理解されがたいことだろうが、師が日本に行かなかった三番目の理由は、師が「日本に行きたかったから」である。

常にキリストにならって生きたいと思う師は、英雄的な肉体的犠牲と共に、信じがたいほどの内的な犠牲をする人だった。

その中の一つとして、たとえ美しく良いものを見る機会があっても、敢えてそれを見ないという犠牲があった。

たとえば、1946年に初めてローマに着いたときも、聖ペトロ大聖堂に行って巡礼するのが長年の望みであったのに、ただ外から見て祈るばかりの数日間を過ごした。

それが師にとって、そのときの最大の犠牲だったからである。師が人知れず行ってきたこのような内的な犠牲は、日常的に数限りない。

ゆえに、私には一つの確信がある。
師は、若い頃から抱いてきた「日本に行きたい」という熱い望みを生涯、犠牲として神に捧げ続けてきたのである。

学校法人「精道学園」設立

最後に、エスクリバー師の願いで1978年に始まった精道学園について書いておく。

1975年6月26日、師が帰天する直前にあった女子メンバーとのだんらんでも、この学校設立のために祈ってほしいと願っていた。

ちなみに、共同の使徒職事業として、すでに1951年に、スペインのビルバオ市では最初の小学校ガステルエタが開校していた。

ガステルエタ校は、オプス・デイの精神の学校を作ってほしいという父母たちの強い要望で始まる。請われて始まった小学校の最初の校舎は、ある篤志家から外套一着分の値段で譲り受けた建物を改造したものだったという。現在は、中学校・高校もあり、スペインの優秀校として知られている。

1952年スペインのパンプローナ市に始まったナバラ大学も、当初は小さく、法学部しかなかった。

しかし、現在ではスペイン屈指の総合大学として発展し、国内外で著名となったナバラ大学には世界中からの留学生が多い。特に、医学部はその付属病院とともに、その優秀さにおいて世界的に高い評価を受けている。

「日本でも学校を作るように」というエスクリバー師からの勧めが早くからあったが、マドゥルガ神父たちは半ば本気にしていなかった。資金もなく、土地もなく、人もいない。スペインと日本では事情が違う。到底できない、無理だと思った。

しばらくは、そのままにしていたが、エスクリバー師から「本気ですよ」と催促された。

師の勧めはいつも神から来ている。いかに無理難題だと思えても、エスクリバー師の勧めたことは実現するのを、マドゥルガ神父は経験上知っていた。

師の言葉に従って、マドゥルガ神父たちは動き始めた。まず高校を作りたいと思い、あらゆる伝手を頼り、可能性を探す。が、思うようにならない。

そのうち、長崎教区の里脇浅次郎枢機卿から、長崎で小・中学校を作ってくださいとの願いがきた。

長崎はカトリック信者が日本で最も多い県である。これは神のみ摂理だと思った。

校舎がまだできてもいないのに、小学一年生の募集を始めた。新設校は通常、開校後数年間は応募者が少ないものである。が、幸い募集人数にぴったりの45名の一年生を迎え、長崎精道小学校は始まった。

3年後の1981年には、精道三川台小学校(男子校)ができ、両校は男女別学教育を行うことになる。長崎精道と精道三川台の男女両校は、その3年後にはそれぞれの中学校も開校し、2009年に精道三川台高校もできた。

また1983年には、同じ精道学園内にミカワ・クッキング・スクール(後の三川女子調理師学校)も設立された。ここでも世界各国に数百ある精道学園の姉妹校同様、オプス・デイの精神に基づき、特に調理一箱を通して社会や家庭に貢献する人材育成のために活動を続けている。

精道学園では、カトリックの教育理念にしたがって全人格的な成長を促し、本当の幸せを知り、味わい、そして周りの人々にその幸せを与えることのできる人間の育成を目指し、全教職員は日々努力している。

最後になるが、精道学園歌の歌詞を紹介させていただきたい。
師の日本への熱い思いは、精道学園教職員を通してこの歌にも込められているのである。

精道学園歌

作詞 精道学園教職員  作曲 山口 修

白き翼のかもめ舞う
蒼き港を臨む地に
今日も文読む瞳健やか
知性を研く望みあり
心に高く夢を持ち
遥かな海へ漕ぎ出さん
精道 精道 未来を担う者

 お告げの鐘の鳴り渡る
 緑の里に抱かれて
 友と語らう瞳和やか
 誠実(まこと)に生きる望みあり
 心に愛の灯をともし
 あふれる喜びいざ広めん
 精道 精道 未来を拓く者