聖ホセマリア

聖ホセマリア・エスクリバー(日本への思い)

新書『聖ホセマリア・エスクリバー 天と地をつなぐ道』(ドン・ボスコ社)は、旧版『天と地をつなぐ』に載せていた日本に関するエピソードは、編集部の意向でほとんどを割愛しています。

一般の人にはあまり馴染みのない内輪的な話が多いことと、新書サイズ220頁に全部が収まらなかったからです。

ただ、日本に関することは、日本でオプス・デイが始まった頃の話や多くの方が(海外からも)お寄せくださったエピソードなど、貴重なお話がたくさんあります。

そこで、割愛した部分をこのブログでご紹介することにしました。

まずは、聖ホセマリア・エスクリバーの「日本への思い」そして「日本への夢」として第1部~第5部の5つに分けてお伝えします。

では、「日本への思い」の2つのエピソードです。

日本への思い

エスクリバー師は日本に対して特別の気持ちを持っていた。ここでは、二つのエピソードを紹介しよう。

1974年、帰天1年前、中南米を訪問した際に、師に会うために集まった数千の人に話している。

「日本のためにたくさん祈ってください。勤勉で、秩序正しく、まじめで、頭のとても良い人々がいるあの素晴らしい国を私はとても愛しています。

日本を誉め始めれば切りがありません。しかし、日本の人々が真の信仰を知らないことがとても残念です。非常に大きな国です。面積のことではなく、人口のことです。

主が多くの召し出しを送ってくれるように祈る価値があります。そうして皆さんは、多くの人を神様のもとへ導くことができるのです。

神様を知るようになった日本の人たちは、カトリックの信仰によって、さらに良いことができるようになるでしょう。」

神の人なる師は、祈りの力を絶対的に信じていた。祈りこそがオプス・デイの武器だと繰り返し教えた。

この師の勧めに従って、世界中のどれだけ多くの方が日本のために祈ってくださったことだろう。

次は、筆者がスペインで取材した際、パンプローナ市に住むクーリー・ロカ神父から直接聞いた話である。

1975年1月6日、スペインのバレンシアにあるジョマという黙想の家でのことだった。

当時クーリー・ロカ神父は27歳の信徒。エスクリバー師は73歳。二人は話しながら散歩道を歩いていた。

クーリー・ロカの叔父フランシスコ・ロカ神父は、日本とオプス・デイを結びつける働きをした一人であった。

日本の大阪教区の司祭として働いていたフランシスコ・ロカ神父は、日本でオプス・デイが始まる前に大阪の田口大司教にオプス・デイを紹介している。

田口大司教(後の枢機卿)がスペインを訪問したとき、フランシスコ・ロカ神父は大司教に同行し案内をしたこともあったらしい。

その事情をよく知っていたエスクリバー師は、クーリー・ロカに言った。

「日本にいる私の子供たちは、大変な苦労をし、多くの実りをあげている。しかし、日本での使徒職はやはり難しい。たとえば、1962年に教皇ヨハネ世がなくなったとき、教皇のご死去を報じる記事が日本の新聞にほとんど載らなかったぐらいだよ」

キリスト教国では、大事件として報じられた教皇の逝去も、日本では多くの人々が無関心だった。

教皇を熱烈に愛するエスクリバー師にとって、それは驚きだった。日本がさらに遠い異教の地に思えた。

「しかし、そういう中で日本の子供たちは本当によく頑張っている。私たちは、もっと日本のために祈らなければ…」

スペイン、アメリカ、アイルランドなどから、エスクリバー師に選ばれた者たちが当時何人も来日していた。

彼らは、日本人に福音をもたらすために、日本の言葉を懸命に習い、慣れない日本の文化や習慣に従って生活していた。

自分の母親が亡くなっても母国に戻らなかった者もいた。

彼らは神のみ旨に自分のすべてを捧げ、日本に骨を埋める覚悟で来たのである。

それがどれほどの苦労だったか、エスクリバー師は知っている。
日本にいる子供たちを思い出すかのように、彼は遠く海を見た。

長い沈黙の後、突然、エスクリバー師の肩が震え出した。

傍らにいたロカは驚いて師の顔を見た。師の目から涙があふれ、頬をつたって流れている。

立ち尽くすロカの耳に、嗚咽のような師の祈りの言葉が聞こえてきた。

「主よ、もう十分だと、言わないでください。もっと、日本のために、恵みを与えてください」

バレンシアの空は、高く澄み渡っていた。