心の清い人々は、幸いである(マタイ5-8)
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
Blessed are the pure in heart, for they will see God.
(マタイ5-8)
目が悪ければ光を見ることができないように、心が清くなければ神を認識することはできないのだそうです。
神を知り、神を愛するためには、心を清く保つことが大切です。
心の清い人とは、理性と意志と感情が清く保たれている人です。
しかし、それは非常に難しい。
人間の心は、それ自体素晴らしいものですが、自然なままでは悪に傾きます。
イエスは、「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは心から出てくる」と、人を汚すものは心から出ることをお教えになりました。
この世の中の悪の多くは、人間の汚れた心から出てくるものなのです。
そういう汚れたところが自分にもあると、たいていの人は思い、とても自分の心が清いとは考えないかもしれません。
しかし、安心してください。イエスは、そういう人々のためにこの世に来られました。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2-17)と言われたイエスは、わたしたちの罪を赦し、心を清くしてくださるのです。
自分を常に正しいと思っている人には、決して神の存在を認めることはできないでしょうが、謙虚に自分の罪を認める人にはできます。
そして、罪を赦し、心を清くしてくださる神の憐れみを感じることができます。
神がいかに憐れみ深い父親かをイエスは、「放蕩息子」(ルカ15-11~32)のたとえ話で教えられました。
「放蕩息子」は、芥川龍之介が世界最高の短編小説だと激賞した話です。
登場人物は、父親と二人の息子で、前半は、父親から与えられた財産を放蕩の限りを尽くして使い果たした弟の話。
「もう息子と呼ばれる資格はありません」と、彼が心から罪を悔い改めて帰宅したとき、父親はすべてを赦し、息子を盛大に迎えいれます。
「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と。
後半は、弟への歓迎ぶりを妬み、父親に不満をぶつける、常に忠実だった兄の話。
その一見善良な兄に向けられる父親の深い憐れみと諭しでこの話は終わります。
この二人の息子に向けられた父親の憐れみが、神の憐れみなのです。