愛する心からは自然と祈りが湧き出ます。
「愛」の定義はいろいろありますが、聖トマス・アクィナスは「他人の幸福を願うこと」だと言います。
他人の幸福を願う心、それは自然と祈りとなって私たちの口にのぼるものです。
「ご健康を祈ります」「ご回復をお祈りします」などと挨拶をすることがありませんか。それは多くの場合、相手を思いやる心から生まれてくる言葉です。
高校野球の応援席に女生徒が一心に手を合わせる姿を見掛けることがあります。何を祈っているのでしょうか。
「勝たせてください。お願いです。お願いです」
そう心の中で叫び繰り返しているように思えます。
体を踊らせ声を張り上げる応援も熱い心から湧き出るものならば、目を閉じ手を合わせて声を殺すのも一途な心から生まれるものでしょう。
私の友人は、子供の出産を待つ病室の外で、ソフア-に腰掛け、あるいは立ち回りながら、何度も同じことを願っていたそうです。
「五体満足で生まれてくれ。母親も無事でいてくれ‥‥‥」
愛する人のため、家族のため、あるいは自分のために、人は自然と祈りを発することがあります。
人を愛する心と自分の非力を知る謙虚さがあるとき、人は祈ることができるのです。
マザ-・テレサの「祈りと愛」についての含蓄深い言葉をご紹介します。
「祈りはとくに、子どもたちと、家族のために大切なものです。私は、愛は家庭からはじまると考えています。ですから、家族が全員で祈ることはとても重要なのです。家族がともに祈れば、一緒にいることができ、神があなたが一人ひとりを愛するように、あなたがた家族も互いに愛しあうことができるのです。どんな宗教を信じているにせよ、家族はともに祈らなければなりません。また、子どもたちは祈ることを学ぶ必要があります。そして彼らは、一緒に祈ってくれる両親が必要なのです。」(『マザ-・テレサ語る』)
ただ、その祈りが一方的な私達からの願いごとであれば、そこには利己愛が入り込む可能性があります。
本当の愛は、他人の幸福を願う無私の愛です。
それは神への愛であり、自分のように隣人を愛する愛です。
「愛!あなたが私達にご要求なさるのは、これだけです。あなたは私達のわざを必要とはしません。ただ愛だけをお求めになるのです。あなたはわずかの水をサマリアの女に求めることをおためらいになりませんでした。あなたは渇いていらしたのです。けれども『飲ませてください』とおっしゃって、全世界の造り主であるあなたがお求めになったものは、ご自分のあわれな被造物の愛だったのです!」(『小さき聖テレジア自叙伝』)
その愛から生まれる祈りを神はお望みです。神の望みを望む祈り、他人の願いを願う祈り。そのような祈りは、愛から生まれ、私たちを愛で満たすのです。
「祈りは心を広くしてくれます。神様ご自身を賜物として心の中にお入れできるほどに、広くしてくれます」(『マザ-・テレサ 愛と祈りの言葉』)