祈りの小路

祈りの小路~日々の務めとして祈る 

「苦しい時の神頼み」という言葉があります。

苦しい時、困難が襲ってきた時には、謙虚に神様にお願いしますが、平穏無事の時には神様を思い出しもしないという皮肉がこめられている格言です。

普段は神様にあいさつもしないし、感謝もしないのに「苦しい時(だけ)の神頼み」を、寛大な神様はときには聞いてくださるかもしれせん。

でも、不誠実で恩知らずのままの人を神様は決して良しとは思われないでしょう。

人間同士でも、物事を頼む時には何かと調子よいくせに、普段はそっぽを向いている人との間に友情関係が育つでしょうか。育つはずがありません。

神様との親子関係、友情関係をより良いものにしていくためには、祈りは日々、継続的なものでなければならないのです。

また勉強や仕事を、「今日は気分がいいからやろう」とか「今日は忙しいからやめよう」といった気紛れに左右されて、したりしなかったりすればどうでしょう。

まず効果は上がらず、成績や業績は振るいません。

祈りもそれと同じで、その日、その時の気分次第で、したりしなかったりすれば、効果はあまり期待できません。

ですから真面目に祈りの生活をしようと思うのなら、毎日、欠かさず祈ることが必要です。

たとえ短時間でも構いません。神様と約束の時間を決め、その決めた時間祈るのです。

「祈りのときには次の決心を固く守りなさい。慰めゆえに長く祈ることも、無味乾燥ゆえに短くもすまいと」(『道』99)

前もって十五分間と決めていたのなら、十五分間を祈りの時間に当てます。今日は調子が良いから、気持ちがいいからといってその時間を延長するのは避けます。

また、祈っていてもなんとなく味けなく、心に何も浮かばない。じっとしていても時間の無駄遣いのような気がするからといって、短縮させることもしません。

気分のすぐれる時もそうでない時も、神様と前もって決めていた時間、祈るようにするのです。祈りにおいて私達は、自分を求めるのではなく、神様を求めるべきだからです。

また、その祈りの時間を遅らせないというのも大事なことです。

私達は、誰かと会う約束をするとき、普通、場所と時間を決めます。

ビジネスマンですと、目上の人に会う場合、遅れて行くのはもっての他、会合場所に五分~十分前には行って待っておくのは常識です。

相手が自分にとって大切な人なら、一分でも遅れて相手を待たせるのは失礼ですし、待たせたくはないと思うでしょう。

待たされた人は、相手から軽視されていると思い、気を悪くするかもしれません。また、何か不慮の事故でもあったのかと心配をかけることにもなりかねません。

神様との祈りの約束でもそうです。祈りの時間を、勉強や仕事が忙しいからとか、遊ぶのに夢中で遅らせるのはどうでしょう。

いずれにしても自分の都合を優先させ、結果的に神様を軽視することになります。また、ついウッカリと祈りの時間を忘れることがあれば、こまやかな愛に欠けているということです。

祈る時間を決め、それを毎日守るのは、実際やってみると大変難しいことです。

これは、ある時には自己の怠け心と戦わねばならない犠牲となります。

しかし、そのためにかえって神様を喜ばせる行為となるでしょう。犠牲のあるところには、本当の愛があるのですから。