良い念祷をするためには、神様と静かに語り合える場所を捜さなくてはなりません。
神様は確かにどこにでもいらっしゃいますが、祈りの場として適しているのは、聖櫃の側です。
静かな教会であれば、注意が散漫することも少なくなります。
神様がご聖体という形で私達の間にお残りになった一つの理由は、祈りにおいて私達が神様と付き合うことを望まれたからです。
スケジュ-ルのやりくりをし、教会にわざわざ足を運ぶことには、それだけで価値があります。祈りの良い準備となりますし、時には神様をお喜ばせる犠牲となるからです。
ただし、日本のように教会の少ないところでは、いつも聖櫃の側で祈ることは難しいでしょう。そういう時には、静かに祈ることのできる別の場所を選びます。
たいていの場合、自宅で祈るということが多くなるかと思います。
しかし、わが家といえども時には祈りの邪魔になるようなことは多々起こり得ます。突然の来客や電話。また別室で遊んでいるはずの子供が急に声をあげて泣き出したり、話しかけて来たりとか。
とは言っても、本当に祈ろうと思うのなら、いかに困難や障害が多くとも克服できます。
また、祈りの価値を知っている忙しい人ほど、上手に時間と場所を確保して、祈りができるようです。
ある銀行の支店長は、朝から晩まで過密なスケジュ-ルをこなす多忙な人物です。
しかし夕方のある時間帯だけは、祈りのために仕事を空けています。
急な来客や電話があっても、受付嬢には「ただ今、某は席をはずしておりますので、三十分ほどお待ちいただけますか」などと丁重にお断わりするように指示してあります。
それは、神様との祈りの時間を確保するための工夫なのです。
また、あるビジネスマンは通勤途中の徒歩での二十分間、ロザリオを唱える習慣があります。そのため、なるべく人通りの少ない静かな道を選んで歩きます。
旅行中など、やむを得ないときには、車や列車の中でも祈ることができます。霊的書物を広げたり、そのような書物の朗読テ-プを聞いたりなどして、静かに神様と語り合う時間を持てます。
このように一日の中に特別な祈りの時間、場所を持とうと戦っている人は、それ以外の時間や場所においても観想生活を送ることができるようになります。
「私はとんでもないときに時を打つ狂った時計のようだと、時々あなたは話してくれた。祈りのときは冷たくて乾ききっている。
ところが、毎日の忙しい仕事の合間や街路で、都市の雑踏のただ中や職務に黙々と従事するとき、そんなおよそ期待もしていないときにあなたは祈っていると。
とんでもないときに?そうかもしれない。しかし、そのような時の知らせを無駄にしてはならない。『霊は思いのままに吹く』ものだ」(『道』110)
祈りにおいて神様と付き合うようになった人の霊魂に、神様は念祷の時以外にも、その人に語りかけることがあります。
日常生活のあらゆる場で常に神様の現存を保つことができるようになります。
私達のまわりに起こる様々な出来事の中に、神様のみ旨を感じ取ることもできるようになります。
つまり、日常生活を観想生活に変えることができるようになるのです。