祈りの小路

祈りの小路~謙遜に祈る

謙遜は、祈りに欠かすことのできない条件です。

聖人たちはその個性に応じた聖徳をもっていましたが、誰もが謙遜の徳に優れている人々でした。謙遜はすべての徳の基礎であり要となる徳であり、謙遜なくては罪人として自分の真の姿を知ることも、神様の偉大さを知ることも有りえないからです。

聖ヨハネ・マリア・ビィアンネ-神父も謙遜で、よく祈る人でした。一教区司祭として、彼ほど神様と人々のために働いた人はいないでしょう。

彼はフランスのアルスという村全体を回心に導いた聖人です。

村人だけでなく、彼の聖徳を慕って国内外から訪れた多くの巡礼者たちの相手もし、告解も聞きました。

忙しい日は十時間以上も告解場にくぎづけにされ、それに御ミサ、説教、公教要理、手紙の返答、霊的指導の時間を加えると寝食の時間は、わずか(二~三時間)しか残らなかったといいます。

それを続けること四十四年間。最期は、十七時間の告解を聞いた後、「私はもうこれ以上何もできない。もう終わりだ」と言って倒れたそうです。とても人間業ではありませんでした。

在命中、生きた聖人を見ようと訪門客は日増しにふえて、村には記念のメダルやロザリオを売る売店までできたほどでした。最後の年は十万人の巡礼者があったそうです。しかし彼は、自分が尊敬されるのを極度に嫌いました。

「どこの家でもできの悪い子がいるものだが、私の家では私がそれであった」

「神様が私を罪人に恩恵を与えるための道具としてお選びくださいました。それは私が司祭の中でいちばん無学であわれな者だからです」

誰よりも深く自分の弱さと無知を自覚していた彼は、ただ神の栄光と人々の求霊のみを考えて、寝食の時間を割いて、説教や教理教授の準備をし神学書をひもといていました。

だからこそ、自身よく祈り、人々を祈りに導くことができたのです。

逆に、私達が不遜である時、とても祈る気にはなれないでしょう。

自分を特別優れた人物のように思い、どんな苦しい状況に置かれても、これまで自分の力だけで乗り越えてきたと信じ込んでいる人は、これからも誰の助けも借りずに乗り越えていこうとするでしょう。

自分に与えられている物は自分にとって当然であると思う人は、誰にも感謝する必要を感じないでしょう。

両親や友人が与えてくれた様々な支えや励ましに対して、そのような態度を取るのなら、目に見えない神様に助けを願うことも感謝することもできません。

「謙遜とは、真向から自分を見つめ、ありのままの自分の姿を知ることです。そしてほとんど価値のない自分に気づくときこそ、神の偉大さに目を向けることができるのです」(『神の朋友』96)

謙遜であればこそ、自分自身の真の価値を認めることができます。自分の思い、行い、怠りによって罪を犯したことにも気づきます。

子供は自分の弱さから両親の力を頼みとします。私達は弱い存在であることを祈りの中で認め、その援助を主に頼むようになります。

そして私達の欠けた所を改善するための恩寵を、神様に願い始めるでしょう。また、与えられた恩寵に気づき感謝もするでしょう。

私達が謙遜であれば、恐れることなく神様に近づき祈ることができるのです。