「はたして神様は、私の言うことを聞いてくださっているのだろうか」
祈りをしているうちに、ふとこのような疑問が不安と共に胸をかすめることがあるかもしれません。
「私は祈った。しかし、少しも変わらない。神様は私の言うことを聞いてくださっているのだろうか。たとえ、聞いてくださっているにしても、応えてくださらない。祈るなんて独り言と同じだ。退屈だし、もう疲れてしまった」
私達は、恩寵の作用を感覚的にとらえたいと望みます。
できれば神様のみ声を聞きたいと望むこともあるでしょう。
しかし、神様はご出現されることはありませんし、私達の感覚や感性を通じてお話しになるのではありません。
五感を通じて神様のお応えを聞きたいと望むがために、祈りの効果はないかのように思えるだけのことです。
神様はいつも私達の祈りを聞いてくださり応えてくださいます。
祈る努力をする霊魂に実際、神様はいつもお話しになっているのです。
でなければ、念祷のときに湧いてくる様々な良い思いや考えはどこからくるのでしょう。
自分の空虚な生活に対する反省はどこからくるのでしょうか。
今までの生き方を変えたい、もっと惜しみない寛大な心を持ちたいといった望みは一体どこからくるのでしょうか。
神様は、このようにごく目立たない方法で私達の霊魂に種を蒔いてくださいます。
祈りのとき、生き方をかえねばと思う、これが神様の応答です。
ただし、この種を私達がいつもうまく受け止めることができるとは限りません。
福音書の「種を蒔く人」のたとえ話(マタイ13章4~23・マルコ4章3~20・ルカ8章5~15)のように、私達の霊魂の状態でその種の行く末は違ってくるからです。
ある人の霊魂には、せっかく種(御言葉)が蒔かれたのに、油断しているすきに悪魔がきて奪い去られてしまいます。
恐らく、奪われたことを、あるいは蒔かれたことさえも、この人は気づいてはいないかもしれません。
悪魔は馬鹿ではありませんから。そして、祈っても何の効果がないことをこの人に感じさせるのです。
別の人の霊魂は、その良い考えを喜んで受入れますが、自分に根がないので、試練に会うとつまずいてしまいます。
この人がつまずいたままで立ち上がろうとしなければ、自己を弁護するため、祈りの時に湧きあがった良い考えまでを否定していまいます。
そして、祈りは自分を落胆させる時間潰しだと思うようにもなりかねません。
また他の人の霊魂は御言葉を受入れます。しかし、その人を世の煩いや富や快楽への誘惑が強く支配しているために、いくらかの良い決心をしたとしても、覆いふさがれて生活の改善にまで結びつきません。
戦い続ければその覆いを打ち破ることはできるのですが、様々な欲望と離れ難く、自分にはできない、祈っても無駄だ、と思ってしまうのです。
最後に、良い状態の霊魂に蒔かれた御言葉は、しっかりと受け止められ、また実行に移されます。
そして忍耐して守り続けられ成長していきます。その結果、このうちのある者は三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶようになるのです。
「神に聴いていただくようなねうちはない、とあなたはみずからの不徳を認める。しかし、マリアの功徳や主のおん傷はなんのためか。それにあなたは神の子ではないか。神はあなたの祈りを聴きいれてくださるのだ。『神は善きおん者、そのいつくしみは世々に限りがない』からである」(『道』93)