子供が親に物をねだる時のことを思い出してみてください。
本当に欲しいものなら、「ダメだ」と言われてもへこたれずに、何度も何度も繰り返し頼むものです。泣いたり、喚いたり、座り込んだりして‥‥。
そして親は、子供のしつこさに負けて、願いを聞き入れてくれるものです。
「求めなさい。そうすれば与えられる。捜しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7章7~8)
神の子供としての信頼をもって、執拗に祈り続けるならば、神様はきっと私達の祈りを聞き入れてくださいます。
聖モニカは、幾多の困難にもめげず、神様にわが子アウグスチヌスの回心のために、ねばり強く祈り続けたキリスト教的母親の典型です。
アウグスチヌスは、幼少の頃から悪に流れやすく、中学時代から酒を飲んでいました。大学時代には、身元のはっきりしない女性と同棲し、男児までもうけ、おまけにマニ教にこりだしていました。
学業においては天才を発揮し非常に優秀でしたが、モニカにとって、それはなんの慰めにもなりません。
わが子の魂の滅びのことを考えると食事も喉を通らないぐらい心配が募りました。
息子の不品行を叱りつけても、頭の良い息子の反論にはかないません。モニカにできることは、母親としての涙と祈りを繰り返すだけでした。
そのような苦悩を打ち明けられた司教は、モニカの涙に動かされ「ご安心ください。それほどの涙の子が滅びることは決してありません」と言ったそうです。
アウグスチヌスは、その後も何度も母親の期待を裏切りました。しかし、母モニカは、息子の回心のために涙ながらに苦行をし、たゆまず祈り続けたのです。
母親の絶えまない努力のおかげで、次第にアウグスチスヌは恩恵の光に照らされるようになります。
彼が別荘で瞑想にふけっている時でした。隣家で遊ぶ子供たちが「取りて読め、取りて、読め」と歌っているのを聞きました。
彼は、それに従って聖書を開くと、聖パウロの書簡が目に入ってきたのです。
「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと妬みを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして肉に心を用いてはなりません」(ロ-マの信徒への手紙13章13-14)
この刹那、劇的な回心が起こったとアウグスチヌスは述懐します。
「私はそれ以上読もうとはせず、その必要もありませんでした。というのは、この節を読み終わった瞬間、いわば安心の光とでもいったようなものが、心の中にそそぎこまれてきて、すべての疑いの闇は消え失せてしまったからです」(『告白録』8巻29章)
モニカは亡くなる数日前に、息子と天国について語り合ったあと、次のように言っています。
「わが子よ、私といえば、この世の中にもの自分をよろこばせるものは何もない。‥‥ この世にまだしばらく生きていたいとのぞんでいた一つのことがありました。それは、死ぬ前に、カトリックのキリスト信者になったおまえを見たいということだった。神様は、この願いを十分かなえてくださった。‥‥もうこの世で何をすることがありましょう」(『告白録』9巻10章)
このようは聖モニカの涙ながらのねばり強い祈りは、のちに史上屈指の教会博士となる聖アウグスチヌスの魂を回心させ、永遠の生命へと導いたのでした。