祈りの小路

祈りの小路~洗礼を受ける

「どうして洗礼を受けたのですか」

大学生の時、自分の意志でカトリック信者になったので、このように尋ねられることが少なくはありません。

神様のお恵みを話せるチャンスでもあり、なんとか的確にお答えしようとは思うのですが、聞き手がカトリック信者でない方の場合、いつもその答えに窮します。

「カトックの勉強をしているうちに、これはもう受けなきゃならないなと思うようになりまして‥‥」と答えても、信者でない方にはあまり理解していただけないのは当然です。                                  ずばり「もっと幸せになりたかったからです。この世でも、あの世でも」と答えても、人によっては「洗礼を受けなければならないほどの暗い過去があったのですか」と誤解されたり、「洗礼を受けなければ不幸なのですか」と気を悪くされたりもします。

洗礼は人生の一大事です。幸運にも幼児洗礼を受けられた方ならいざ知らず、大人になって導かれた者には、それなりの経緯やら理由やらがあり、それを説明するのは容易なことではありません。

しかし、それを承知の上で、多分誰にでも共通する理由をあげてみましょう。

それは、「様々な出来事から神と自分を知ることができたから」そして、「自分のために祈ってくださっている人がいたから」ということです。

『長崎の鐘』『この子を残して』などの著書でも知られる永井隆博士の場合もそうでした。学生の時、彼は無神論者だったのですが、パスカルの『パンセ』や母親の臨終に立ち会った経験などから、次第に神の存在を認め始めます。そして下宿先の森山家の人々によって、神への生きた信仰の在り方も教えられました。

神とその教えを知り始めると永井さんは、自分をより深く謙虚に見つめ出しました。

「私は急に自分が汚れたものに思えてきた。もし神が存在し、そして悪魔も存在するならば、私は悪魔の十戒に従って生きてきた」

一方で、そんな永井さんに思いを寄せ、戦地から無事に帰るように、また信仰の恵みがさずかるように、毎日人知れずロザリオの祈りを捧げている女性がいたのです。

「神様は、私があの方をお慕いしているのをご存じです。けれども私よりもはるかに教養の高い方が、あの方の奥様となられるのでしょう。‥‥‥ 隆さんが無事に帰られた今は、親や仲人の薦める方と見合いを致しましょう。隆さんが信仰の賜物をお受けになるために、この苦しみをお捧げします」

このように涙ながらに祈っていたのは、後に永井博士の妻となった緑さんでした。

この緑さんの一心な祈りを知らずして、永井さんは洗礼を受けます。

神を知る。自分を知る。そして祈る。

順番は違ってもこの三つが、洗礼の恵みを受ける人の道程にあります。

カトリックでは「洗礼の秘跡によって、‥‥人は原罪と自罪、及びその罰が完全に赦され、‥‥天国に入る権利と他の秘跡を受けられます」と教えます。

その教えを信じる人にとって、洗礼は最高の恵みであり、同じ恵みを愛する人や親しい友人にも願うのは当然のことだと言えましょう。

ですから、目には見えずとも、一人の人の洗礼には様々な愛のドラマがあるのです。