愛から出て、愛のために時間が活用できれば、いっそう素晴らしいことです。
活動の出発点が愛にあり、愛に向かって進んでいるのであれば、私たちは正真正銘のキリスト信者といえるでしょう。
キリストが教えた愛徳の新しい掟
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13-34)
キリストは、謙遜で清貧な方でした。しかし、謙遜であれば、「あなたたちが私の弟子であると人々は認めるだろう」とは、おっしゃいませんでしたし、清貧であれば、「認めるだろう」とも言われませんでした。
正義、節制、剛毅、純潔、あらゆる徳を完全にそなえておられましたが、ただ一つ、ほかでもない愛徳をみて、人々は私たちがキリスト信者であることを認めるだろうと宣言されたのです。
「友に自分の命を捧げるほどの大きな愛はない」と言われます。
聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父は、アウシュビッツ収容所で、妻子がある人のために、自分の命を捧げた愛の殉教者です。
誰もがそのような愛と剛毅、また殉教の機会を与えられるとは限りません。
しかし、そのような精神を日常生活の中で少しでも実行することはできるのではないでしょうか。
日常生活の中で小さな愛を示す
たとえば、家族のために奉仕すること。
家庭生活をもっと快いものとするために、自分の好みをよろこんで抑え、自己を忘れて献身的に家族の一人一人に奉仕できるように努めること。
仕事に追われて困り果てている兄弟や友人のために手を貸してあげること。
「しかも相手が当然のことをしてもらっているにすぎないと感じるほどに慎み深く、さりげなく」(『道』440)、人目をひかぬものであるように。
赦すこと。理由はどうであれ、相手に対して憎しみの感情を抱き続けることなど、神様のお望みではありません。
「我らが人にゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ」と祈ります。神様は、それ以上に私たちの罪をゆるしてくださっているのですから。
陰口や悪口を言わないこと。また、それらに耳を傾け同調しないこと。
他人のことを悪く判断して否定的な批評を考え続けて時間の浪費をしないこと。
これらは皆、愛徳にもとり平和を奪う行為ですから。
相手を理解すること。人の欠点や失敗に対して、何かの言い分けを捜してゆるすことです。
また一人ひとりが孤独を感じることのないように気を配ることも大事です。
説諭をすること。その人に直すべき点があるのなら陰で非難するのではなく、本人に直接言ってあげることです。
その時には、人前ではなく、その人と二人だけで、相手が傷付けないように、優しくていねいに言ってあげます。
このように、日常生活の中で時間を愛徳のために活用できる機会は多いのです。
「たとい私が人間と天使の言葉を話しても、愛がなければ鳴る青銅と響きわたるどらに等しい。たとい私が預言の賜をもち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰をもっていても、愛がなければ無に等しい。たとい私がすべての財を施し、この体を焼かれるために与えても愛がなければ益するところはない。愛は寛容で、愛は慈悲に富む。愛は妬まず、誇らず、高ぶらぬ。非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてを赦し、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを耐え忍ぶ。」(コリント人への第一の手紙13―1~7)