私たちがいずれ死ぬこと。これは、否定しようのない真実です。
私たちに与えられた人生という時間は、「死」によって幕を閉じます。
あたかも「死」が人生のゴールであるかのように、私たちは「死」に向かう旅人のように、時間の上を歩くのです。
死を考えずに時間活用はできない
誰もがいつかこの世を去り、自分も例外ではありません。「死」を考えないことも、忘れることもできますが、「死」から逃れることはできません。
ところで、「時間の活用」は、この「死」を抜きにしては語れません。一分一時間の積み重ねは、一日一年であり、その積み重ねが人生です。
人生の結末である「死」を想起せずして「人生の目的」を考えることは理に反します。
また、「人生の目的」にかなった「時間の使い方」でなければ、それは「活用」ではなく「無駄遣い」になる恐れがあるのです。
ある友人のお父さんの死
数年前、友人Iさんのお父さんが亡くなられました。ガンを患われ家族に見守られつつ逝かれたそうです。
「感動的な死に際だったとですよ」
電話の向こうでIさんは、声を詰まらせて報告してくれました。
「そうでしたか」
一人の人が自分の人生を閉じるその間際は、どのようなものであれ感動的なものに違いありません。
ましてや、初めて親の臨終に立ち会った子供の心境というのは、他人には分かりようのない感慨を伴うものでしょう。
一度も人の死に立ち会ったことがない私は、自分の薄っぺらな受け答えに嫌悪を感じながらも、彼の次の言葉を待ちました。
とぎれとぎれの言葉で、涙と鼻水をすすりながら、彼は言いました。
「親父が、死ぬ前に言ったことがあっとですよ。喉頭ガンでろくにしゃべれんかったのに、はっきりと聞き取れたとですよ。‥‥ありがとう‥‥。もう思い残すことはなかって‥‥」
カトリック信者であった彼のお父さんは、病者の塗油も受け、旅路の糧もいただき、きれいになった霊魂のまま神様の元へといかれたのです。
しかも、その場にいた人々に、静かに、安らかに、感謝をしつつ‥‥。これまでの人生、すべてに感謝をしつつ‥‥。
最終ゴールをどのように迎えるか
残されたIさんたちは、肉親を失う哀しみの中でどれだけ慰められたことでしょう。
それを考えれば、お父さんの臨終の言葉と行いは残し逝く人たちへの何という深い愛情だったのかと感嘆させられます。
死ぬ間際にだけ、すぐれた人格者でありうるはずがありません。
亡くなられたお父さんは、きっとその臨終にも勝る素晴らしい人生を送ってこられた方なのでしょう。
人生の最終ゴールでもある死をどのように迎えるべきか、それに向かってどのように歩むべきかを教えられたような気がしています。