時間という宝

余暇を祈りにして時間を活用する

先日、『余暇と祝祭』(ヨゼフ・ピ-パ-著・稲垣良典訳・講談社学術文庫)という本を読んで「余暇」という時間の活用に有意義なヒントを得ました。

「余暇」の本来の意味とは・・・

わが国における「トマス・アクィナス」研究者の第一人者である稲垣良典氏によると、この本は、すでに「レジャ-論の古典としての位置を占めるにいたっている」書物だそうです。

日本でも、時間をいかに人間らしく生きるかを真面目に考える多くの人々に有益な示唆を与え続けている本となっています。

以下、ピーパ-氏が論ずるところをおおざっぱに要約しましょう。

「余暇」の意味は、「自分の自由に使えるあまった時間。ひま。」(『広辞苑第四版』)というのが一般的ですが、本来の意味は違います。

「余暇」という言葉の語源をさぐると、ギリシャ語ではスコレ-、ラテン語ではスコラ-、ドイツ語ではシュ-レとなります。

つまり、教養、あるいは人格形成の場をさすのに用いている言葉自体が、余暇を意味しているのです。

時には、「余暇」は「労働」と対比した意味で使われ、「労働」には価値があるが、「余暇」にはない、という考えでとらえられることもあります。

しかし、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「政治学」の中で「われわれは余暇をめあてに働くのだ」という格言とともに、「余暇がものごとの要であり、すべてはそれを中心に回転している」という考えを述べています。

「余暇」は本来、私たちの豊かな生活になくてはならない重要なものなのです。

「余暇」の最高形態とは・・・

たしかに生産的活動ではありませんが、やはり一種の活動です。

「余暇」の最高形態はコンテンプラチオ(観想)にあり、人間がこの地上で実現できる本当の幸せがあるとしたら、それは観想活動において見出されるものであります。

彼はこのように「余暇」の重要性や本質について述べ、話はさらに「コンテンプラチオ」の哲学的意味へと続きます。

そして、真の「余暇」を実現するために「祭り」と「礼拝」による神との交わりが不可欠であるという論に発展していくのです。

そこには、「人間が真に人間であるためには、自己のせまい殻からぬけ出て神のもとへ立ち返らねばならない」との主張が根本にあります。

私は、この考えを読んで、ふと聖アウグスチヌスが『告白録』に書いたあの有名な言葉を思い出しました。

「神よ、あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」

欧米人から見れば、勤勉で働きバチの日本人は、休むことが苦手だそうです。

休暇をもらっても何をしていいかわからず家でゴロゴロしていたり、行楽地、観光地を巡って動き回りますが、人の多さと交通渋滞のため結局は疲れて帰ってきたりすることはないでしょうか。

スポ-ツ、山歩きをするのも良いし、釣りをするのも良いと思います。

けれども時には、もっと価値の高い余暇の活用をしてはどうでしょうか。例えば、月に一度ぐらい黙想会に参加することです。

慌ただしい日常生活から離れて、自分を神様の元におくことです。

仕事や家族や日常生活の雑事から完全に自分を解き放ち、自分の生活を神様のみもとで振り返ってみることだと言ってもよいでしょう。

そうすれば、見失っていた自分の人間性を回復し、思いもかけぬ新たな活力を蓄えることができるのではないでしょうか。

レジャー「強いられた休暇」(forced leisure)

以下は、最近出された稲垣良典先生のカトリック教会報への記事です。

レジャー「強いられた休暇」(forced leisure)

稲垣良典(古賀教会信徒)

中国の地方的なエピデミック(流行病)で幕を閉じますようにとの願いも空しくパンデミック化した新型コロナウイルス感染症は、有効な治療や予防の手段が発見・開発できないまま、広い範囲でスポーツやエンターテイメントの催しの中止、さらには学校や様々の職業的活動、労働の場の一時的閉鎖という深刻な状況を引き起こしている。

これは多くの人々がそれの為に、あるいはそれによって生きている活動を休止せざるをえない苦境に追い込まれていることを意味する。

表題に選んだ言葉は、『ロビンソン・クルーソー』の著者デフォーが書いた『疫病流行記』に詳しく紹介されている17世紀イギリスを襲ったペストのため、ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジが一時閉校となり、学生だったアイザック・ニュートン(1642〜1727)が1665〜66の2年間、郷里の農村で生活するように強いられたことを指している。

学術研究の「象牙の塔」から強制的に締め出された期間が「追放」「隔離」とは正反対の、実り豊かな悦びの時「レジャー」であったのは何故か。

それは近代科学の建設者とされるニュートンの伝記に関心のある者なら誰でも知っているように、ニュートンが数学、物理学、天文学などの領域において達成した画期的な業績の実にすべてがこの2年間に基礎を置かれたからである。

ではなぜ新型コロナウイルス・パンデミックの渦中で「強いられた休暇〈レジャー〉」の話を持ち出したのか。

それは今われわれを包み込んでいるパンデミックの苦境からニュートンの「奇跡」のような収穫を期待してのことばでは決してない。

むしろ「強いられた休暇=活動休止」が真実の余暇〈レジャー〉のとなる道を探りたい。

余暇の本質を端的・適切に言い当てた言葉とは旧約聖書『詩編』46の「静まれ(=余暇を持て)、わたしを神と知れ」ではないだろうか。

「静まれ」と訳されているギリシャ語、ラテン語の原語は「余暇を持て」であり、ギリシャ語の「余暇〈スコレー〉」は周知のように「学校」を意味する。

四旬節の最中、世界を襲ったパンデミックが私たちに様々の犠牲を迫る「強いられた休暇」を押しつけていることは否定できない。

しかしそれは私たちが、自己と神について真実のことを学ぶ「恵みの学校〈スコレー)」になりうるのでは。