小事は大事

貧しいやもめの献金~小事は大事

小さな行いが神様を喜ばせることがあります。

「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。

『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(マルコ12-41~44)

最後の晩餐の前日に

イエスさまの目には涙が光っていたのかもしれません。

これは、最後の晩餐の前日、エルサレムの神殿での出来事でした。

受難と死は目前に迫っていました。明日には師を裏切る弟子たちに、教えておかなければならないことが、イエスさまにはまだたくさんありました。

「神殿の崩壊の予告」と「終末の徴」、そして「死と裁き」‥‥。

そのため、偽善的な行いについても戒めておかねばなりませんでした。

「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、またやもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けるようになる」(マルコ12-38~40)

師の語調がいつになく激しいのに気づいても、その切迫した心を理解できる者はいませんでした。

そのような状況の中で、あの貧しい一人のやもめは現れたのです。その行いを見つけた時のイエスさまの目の輝きが想像できます。どれだけイエスさまの心を慰め喜ばせたことでしょう。

彼女の捧げた献金は、金銭的にはごくわずかのものでした。

しかしイエスさまは彼女の生活の貧しさをよくご存じでした。律法学士に食い物にされても、神への信仰を失わない善良さも知っておられました。

そのわずかの金銭が彼女にとってどれだけ大事な生活費であったか、なぜ彼女は捧げたのか、イエスさまは痛いほどご存じだったのです。

死は真近に迫っています。彼女のこの小さな行いの偉大な意味を、弟子たちに教えておかねばなりませんでした。

最後に伝えておきたかったこと

イエスさまは、弟子たちを呼び寄せはっきりと教えます。

「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた」 

寛大な心は、金銭の額で計れません。信仰の深さは、見た目だけではわかりません。しかし神様は私達の心を見ることも計ることもおできになります。

そして、外面的なことよりも、その心の動きにこそ神様は関心がおありになるのです。

「与えることのできるものを与えよ。功徳は、多いとか少ないとかではなく、与える心にあるのだ」(『道』829)

あの貧しいやもめの行いは人の目には小さなものでした。その心は隠れて見えませんでした。しかし神様の目には、何より大きな功徳に写ったのです。