小事は大事

小さなことへの報い~小事は大事

福音書には、小事を大切にした人としなかった人への評価がのべられています。

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(ルカ16-10)

そのため、受ける報いは全く違います。

タラントンのたとえ話では、忠実だったものは次のように言われます。

「忠実な良いしもべだ。よくやった。お前は少しのものに忠実だったから。多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25-21)

忠実な者と不忠実な者

神様からこのように言ってもらえたら、どんなに嬉しいことでしょう。

このキリストの言葉には、永遠の光栄が約束されています。私達が任されたわずかなことに忠実でさえあれば、神様は喜び、天国の幸福に導いてくださるのです。

しかしこの逆の場合、次の厳しい言葉をキリストは言われます。

「この役に立たない僕を外に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(マタイ25-30)

また、羊と山羊を分ける話では、一方の人たちにこう言われます。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受けつぎなさい」(マタイ25-34)

そう言われても、自分はたいしたことはしていない、そんなに誉められるようなことをした覚えのないそれらの人たちは、不思議に思います。

「主よ、いつわたしたちが、そんな祝福を受けるようなことをしましたか」

というような質問をするのです。すると主は答えます。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟である小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25-40)

つまり自分はたいしたことはやっていないと思っていても、小さなことであってもまわりの人に心細かに愛の行為をするならば、神様は評価してくださるのです。それは、神様自身に向かう愛の行為となるからです。

ところが、この逆の立場の人たちは、次のように言われます。

「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。‥‥‥ はっきり言っておく。この最も小さい者にしなかったことは、わたしにしてくれなかったことなのである」(マタイ25-41・45)

つまり、まわりの人へのなすべき小さな行いをしなかったということは、まわりの人を軽んじたというだけでなく、神様をも軽んじたということになるのです。

小事における態度の違いは、それこそ天と地以上の差があるのです。

小さなことを愛をもって行う

「神の愛のためになされた小さな行いには、何という大きな値打ちのあることか」(『道』814)

このことをはっきりと知ることのできた小さき聖テレジアは、自叙伝の中で燃えるような心を言葉にしています。

「私は悟ったのです。愛は、ありとあらゆる召しだしをふくみ、愛はすべてであり、愛はあらゆる時代、あらゆる場所を包含する‥‥、ひとことでいうならば、愛は、永遠である、と。

‥‥私の天職、ついに私は見つけました。私の天職、それは愛です。

‥‥あなたに私の愛をあかすために、私は花びらを投げるよりほかに方法がありません。それはつまり、どんなに小さなぎせいも、一つのまなざし、一つのことばものがさずに、いちばん小さなことをみな利用して、それらを愛によっておこなうことです」(『小さき聖テレジア自叙伝』)