小事は大事

殉教の精神で~小事は大事

「長崎には三つの『か』が多いと聞く。坂(サカ)が多い。墓(ハカ)が多い。そいて馬鹿(バカ)が多い」

これは、長崎教区が発行している『カトリック教報』一九九六年十二月号「ほしかげ」の欄に載っていた書き出しです。

おもしろいと思いました。

二十六聖人の行いは馬鹿げたこと?

筆者は、二つの「か」が多いことを認め、三つ目の「か」を「日本二十六聖人」と結びつけます。

「日本の教会にとって、とりわけ長崎の教会にとって、日本二十六聖人殉教四百年祭という記念すべき一年を迎える。

十字架に掛けられたパウロ三木が群衆に向かって『わたしはまさしくキリストのみ教えを説きました。そしてそのために、はりつけにあって死ぬことを最もいさぎよしとし、心から神に感謝するものであります』と言って死を選んだことは、一般的、常識的には考えられないこと。

なぜ自分の命を捨ててまで、そこまで、と人は彼らを狂気していると思い、馬鹿呼ばわりしてもおかしくない」

確かに世間一般には、二十六聖人の行いは馬鹿げたことだったのです。

しかし神様から見れば、神様のために自分の命も惜しまず捧げた非常に大きな愛の行為でした。それは神を愛するという人生の目的を完全になし遂げた最も賢明な行為であったといってよいと思います。

私達日本人は、この日本二十六聖人のような立派な生き方を模範とし、また取り次ぎを願い、信仰生活を送っていくべきでしょう。

ただ、現代の日本は二十六聖人が生きたような迫害の時代ではありません。キリスト信者であることで、拷問にあったり殺されたりすることは、あり得ません。

ではどうやって、二十六聖人のように、神様への愛に生きることができるのでしょうか。

それは、日常の小さいことを通してできます。

誰にも注目されることのない十字架

「日々の仕事や義務を忠実に果たすことがいかに神的で偉大であるか、神とあなたしか知らないそのような小さな戦いがいかに主をお喜ばせするか」(『神の朋友』8)

初代教会の使徒たちや日本二十六聖人に与えられた機会は、私達にはまずあらわれないでしょう。目もくらむような偉業を行う機会がそう度々訪れることもありません。その反対に、小さなこと平凡なことを通して神様への愛を示す機会にはこと欠かないのです。

つらくても決めた時間に起きること。人との約束の時間を守ること。目上の人に心から従うこと。今すべきことを、今すぐすること。

「あまりにも的確なことばやからかいを抑えること、やっかいな人へのやさしい微笑み、根拠のない非難に対する沈黙、時をかまわず現れるうるさい人への親切な応対、一緒にいる人々の失礼な態度や不愉快な言動を気にしないこと、このような努力を根気よく続けるなら、それこそたしかな内的節欲となる」(『道』173)

「主がお望みになる犠牲はたいていは小さなことでしょうが、たとえ辛くとも、心臓の鼓動のように絶え間なく実行されるべきであり、そうすればこそ値打ちをもつようになるのです」(『神の朋友』134)

小さな犠牲や節欲は、誰にも注目されることのない十字架です。

神様と自分しか知らない十字架、天国に輝く十字架なのです。