聖なる人

「如己愛人」の医師永井隆と聖書の言葉

永井隆博士は、『聖書』に親しみ、『聖書』の言葉に従って生きた人です。

永井隆は、1908年、島根県に生まれ長崎医科大学に学びました。

森山緑さんと結婚し、ふたりの子どもともに幸福な家庭を築いていましたが、放射線医療研究のために致命的な白血病を宣告されます。

その二ヶ月後、原爆被爆。最愛の妻緑さんを一瞬のうちに失います。

その悲しみの中を、病症の身ながら倒れるまで人命救助と医学の発展に尽くしました。

しかし、余命いくばくもないと診断された白血病はさらに悪化し、まもなく病床に伏さねばなくなります。それでも、永井博士は不屈の精神で天命に全力でこたえたのです。

「働ける限り働く。腕と指はまだ動く。書くことはできる。書くことしかできない」

そう言って、『長崎の鐘』『ロザリオの鎖』『この子を残して』など、死を目前にしながら、短期間に驚異的な量と高い質の著作を次々と成し遂げました。

「己のごとく人を愛せよ」

平和と愛のために祈り、病身の命をけずるように執筆し続けた博士の二畳一間しかない仕事場あり病室は、如己堂と名づけられました。

如己堂は、「如己愛人」という永井隆のモットーだった言葉が由来です。

「如己愛人」つまり、『聖書』(マルコ12-31)にある「己のごとく人を愛せよ」という言葉に従って生きようとしたのです。

目指した博士の思いや言葉や行いは、活字となり歌となり映像となりました。

それがどれだけ多くの戦後日本人の心をいやし、励ましてきたことでしょう。

「われは主のつかいめなり」

永井隆は帰天すると、長崎市坂本町の国際墓地入り口のすぐ脇に埋葬されました。

墓石は水平で、「パウロ永井隆」「マリア永井緑」と刻まれていました。

隆が生前、頼んで作ってもらっていた二枚の石板のうちの一枚には、「われは主のつかいめなり、おうせのごとくわれになれかし」と刻まれていました。

これは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という意味です。『聖書』((ルカ1-38))にある聖母マリアの言葉で、隆が毎日、何十回、何百回と念じていた祈りの言葉の一部です。

また、もう一枚には、「われらは無益なしもべなり、なすべきことをなしたるのみ」と刻まれていました。

これは、「わたしたちは役にたたない召使です。ただすべきことをしたに過ぎません」という意味で、これも『聖書』(ルカ17‐10)の言葉です。

隆は、自分や妻の緑さんの一生を振り返り、自分たちは大した役にも立たなかったのだと謙虚に考えていたのです。