特別な思い
エスクリバー師が日本への特別な思いを持ち始めたのは、オプス・デイ創立以前からだった。
1930年代に書かれた著書『道』の315番にある。
「宣教師。宣教師になる夢。あなたはザビエル並みの布教熱に動かされ、キリストのために国々を征服したいと思っている。日本、中国、インド、ロシア・・・」
この文の「あなた」は、エスクリバー師自身を表す。謙遜ゆえに自分について話題にしたくなかった彼は、必要なら2人称(あなた)か3人称(彼)を使って自分のことを書き表すことが多々あった。
また、『鍛(きたえる)』の88番にも、日本への宣教の夢をほのめかす文章がある。
「今は日本での宣教以外に、苦しみの多い隠れた生活のことを考えている」
つまり、師は、母国スペインが生んだ宣教師フランシスコ・ザビエルのように、自分も日本に行き、キリストの教えを伝えたいという熱い夢を持っていたのである。
そのことを、師の後継者として、1987年来日したアルバロ・デル・ポルティーリョ司教は個人的に証言した。
「創立者は、日本に特別の愛情をもっていました。実は、パドレ自身が司祭になった若い頃から日本に宣教に来たかったのです」
それができなかったのは、彼が神のみ旨により、オプス・デイの創立者になったからである。1928年10月2日、神様はエスクリバー師に世界に広がるオプス・デイをお見せになった。その中に日本人の顔があったことは言うまでもないだろう。
しかし、師には創立者としてやるべきことがあまりにも多過ぎた。
そこで、エスクリバー神父は、日本への宣教という夢を自分より若く、そして最も信頼に足る人物に託そうと考えた。
それは、当時大学生であったアルバロ・デル・ポルティーリョであった。ポルティーリョ師は後に語った。
「1935年、私はオプス・デイへの召し出しの後すぐに、パドレが日本語の勉強を勧めたので、あまり効果はあがらなかったのですが、勉強し始めたことをよく覚えています」
彼が日本に送られなかったのは、オプス・デイがまだ世界に広がる時期ではなかったからである。
そして、ポルティーリョ師自身もエスクリバー師の後継者として、ローマを離れることができなくなったからでもある。
しかし、エスクリバー師の日本への夢は、その23年後実現する。
日本へ
オプス・デイを日本に招き入れたのは、田口芳五郎大阪大司教(後に枢機卿)である。
1957年月、田口大司教はローマにいた。その後、スペインと南アメリカを訪問する予定だった。
オッタビアーニ枢機卿は、このアジアの司教に西欧やアメリカ大陸におけるオプス・デイの使徒職の発展や将来性について語った。そして彼に、もしオプス・デイが日本で始まるならば、日本にとって大きな助けになるとも告げた。
エスクリバー師は、ついにオプス・デイが東洋に渡っていくときが来たと考えた。そこで、アメリカからローマに一時的に滞在していたホセ・ルイス・ムスキス神父を田口大司教のもとへ送った。
オプス・デイの信者たちが日本に行くための手続きをホセ・ルイス・ムスキス神父に託したのである。
田口大司教は、ムスキス神父の話を興味深げに聞き入った。日本のため、オプス・デイの信者に来てほしいと願った上で付け加えた。
「4月中旬に、日本にお越しになれば良いのですが、その頃は、会議のために私は東京にいる予定です。お迎えすることができるでしょう。その上、その頃は桜が満開です。きっと、日本により快い印象をもたれるでしょう」
ムスキス神父から、この言葉を聞いたとき、エスクリバー師は愉快にほほえんだ。
オプス・デイを歓迎するために、桜が咲く美しい時期を選んだ田口大司教の濃やかな心遣いに日本人らしさを感じたのかもしれない。
日本からの最初の手紙
1958年4月、ホセ・ルイス・ムスキス神父は、東京に着いた。
飛行場に足をおろすやいなや、まったく異なる世界に来たことを目の当たりにした。
意味不明の言葉を話す東洋の人々の中に、幸いにも人の日本人青年が彼を待っていた。彼はアメリカのイリノイ州で知り合った人物であった。
それから一ヵ月の間、ムスキス神父は日本列島を旅し続けた。旅に同行し、何かと世話をしてくれたのは当時大阪司教館にいた田中健一神父(後の京都司教)だった。
ムスキス師は、自然、街、人々についての様々なメモを取っていった。東京を出発し、電車の窓から富士山の美しい姿をながめることもできた。
彼は来日後しばらくして、東京からエスクリバー師に最初の手紙を送っている。
日本から初めて届く手紙を、エスクリバー師をはじめローマにいる人々は非常に心待ちにしていたらしい。
郵便の係をしていた者は、エスクリバー師を喜ばせようと、他の郵便の一番上にその手紙を置いた。
師は日本からの手紙を見つけ手に取ると、満面に笑みを浮かべた。
4月19日の消印があるその最初の手紙には、旅行の印象がつづってあった。
その中で、日本におけるオプス・デイのメンバーの活動にとって、後ほど重要になることも書かれていた。それは、日本人が外国語に関心をもっている、ということであった。
師は読み終えると、封筒にペンで書きこんだ。
「日本からの最初の手紙!聖マリア、海の星、あなたの子供たちを守り給え」
この言葉は、日本に行く子供たちを守ってくださるように、エスクリバー師がその後も繰り返した祈りだった。
郵便のことについて、後にポルティーリョ師は次のようなエピソードを公にしている。
「それ以来、郵便物の仕分けのとき、日本からのものは封を切り、別に取っておきました。他のものは山積みにし、後で私と一緒に読みました。でも日本からの手紙がいつも最初でした」
ちなみに、その後エスクリバー師の忠実な後継者となったポルティーリョ師も、エチェバリーア師も、日本からの手紙をまず先に読むこの習慣を守ってきた。
長崎の地で
ムスキス神父は、日本を離れる前に長崎まで行き、エスクリバー師に頼まれた一つの仕事をした。
それは、多くのキリスト者が殉教した長崎の地を師の名において接吻する、ということであった。
師は、同じスペイン人であるフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えて以来の歴史を知っていた。
殊に、迫害に耐え殉教した人々への愛と尊敬には特別なものがあった。また、二百数十年に渡る迫害の間、一人の神父もいないで信仰を守り帳した人々への敬意も格別なものだった。
1865年の長崎での信徒発見の話は、世界的にも有名である。
当時、日本は二百数十年以上続いた鎖国がとかれ、長崎の大浦に教会が建てられた。来日したのは、パリ・ミッションの宣教師プチジャン神父であった。
潜伏していた信者たちは、新しくできた「フランス寺」と呼ばれる建物が、先祖代々伝えられてきた自分たちと同じ信仰の教会だと聞きつけるが、代待ちわびた夢のような出来事に皆は心をときめかした。
「さっそく確かめよう」との話が出たが、「役人に見つかったら殺される」という危険があった。
しかし、女性中心の信者十数名が出かけて行き、ついに確かめることにした。
出迎えたプチジャン神父を見て、一人の婦人が尋ねた。
「私たちの心は、あなたの心と同じです。サンタ・マリアのご像はどこですか」
この言葉に、プチジャン神父は喜びつつも仰天する。
日本のカトリック信者は二百数十年前に全滅したと、ヨーロッパでは誰もが考えていた。
彼自身も、来日以来、教会を建て、毎日のように、潜伏信者を見つけようと努力したにもかかわらず、一人として見つけることができないでいたからである。
聖堂の奥にある幼子イエスを抱いたマリア像の前に案内すると、彼女らは涙を流して、聖母マリアのご像を仰ぎ見た。そして、尋ねた。
「私たちは苦しみ節(四旬節)を守ります。あなたも守られますか」
「あなたさまの頭(教皇)はローマにおられますか」
長崎の信者は、一人の神父も存在しなかった長い迫害の時代も、「マリア様・教会・教皇」への信仰を失わず、先祖代々大切に受け継いできた。
そのことが、「マリア様・教会・教皇」を特別に愛してきたエスクリバー師を感動させなかったはずがない。
なぜ、エスクリバー師が日本への特別な思いをもっていたか、それを明かす鍵がここにもある。