義に飢え乾く人々は、幸いである(マタイ5-6)
義に飢え乾く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
Blessed are those who hunger and thirst for righteousness, for they will be filled.
(マタイ5-6)
「こんな不正が許せるか」と義憤に燃える人は、きっと義に飢え乾く人でしょう。
その義憤はだれに向かっているのでしょうか。
不正を働いた憎ったらしい相手に?それともインチキだらけのこの社会に?
あるいは、自分に?
まず、自分のなかに不正を許さない心を育てたいと思います。
「義に飢え乾く人々」とは「移ろうことのない真の善を心から愛する人々のことである」と聖アウグスチヌスは言っています。
「真の善」とは、神を信じる者にとって、真善美そのものである神の他にはありません。
つまり、義に飢え乾く人とは、神を求め、神に従い、正しく聖なる生活を送ろうとする人々のことです。
彼らは、神のみ前において自分の罪を謙虚に認め、神による義を求め、自分を正そうと努力しています。
旧約時代にも、新約時代にも、「義人」と呼ばれる人がたくさん登場しました。
イエス・キリストの養父である聖ヨセフや聖ヨハネの父ザカリアと母エリザベト、神殿でキリストの救いを預言したシメオンなどは新約聖書に登場する人々です。
彼らは自分を「義人」だとは思っていませんでしたが、まわりの人はそう思っていました。
そういう人々は、神さまの目から見れば幸いなのです。
彼らの望みや思いは、いずれ満たされます。
この世で心の空虚を完全に満たしうるものは、神だけだからです。
憐れみ深い人々は、幸いである(マタイ5-7)憐れみ深い人々は、幸いである(マタイ5-7)
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。 Blessed ...