わたしたちの「お母さん」~聖母マリアへのロザリオの祈り
5月と10月、知り合いのどなたかを誘って、ロザリオの祈りを唱える巡礼に行くことがあります。
長崎に住んでいる時は、海の見える教会のマリア像のところまで行ったものでした。
その日、同行してくださったTさんは高齢にもかかわらず、背筋がしゃんと伸びた人です。
次々と戦友を失う辛い戦争体験を経て、戦後は会社を起こして一心不乱に働き続け、会社が500人の従業員を抱えるほど成長してから引退されました。
その後、間もなく受洗。約十年前に洗礼を受けられていた奥様や娘さんの仲間入りをされたのです。
「もっと早く、カトリックに改宗しておれば、部下たちにもう少し優しくできておったと思います」
けれど、前を向くTさんの表情は、決して暗くありません。私たちを優しく見守るマリアさまの下では、人生の辛酸を舐め尽くしたTさんのような人でも、幼子(おさなご)のようになれるのでしょうか。
「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共におられます」
潮騒のかろやかなリズムが耳に響き、磯の香りをのせたやわらかな風が頬をなでます。
これまでどれだけゆるし助けられてきたことでしょう。それなのに、同じ過ちを繰り返してきました。
これまでどれだけ見守られてきたことでしょう。それなのに、長い間気づきもしませんでした。
これまでどれだけ愛されてきたことでしょう。それなのに、感謝することさえできませんでした。
私もまた、ほほえむマリアさまのかたわらで、小さな子どもになって祈るのです。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」「ありがとう。ありがとう。ありがとう」「そして、これからも、どうかお助けください」
ラジオ「心のともしび」2016年10月放送原稿