愛がなければ、わたしに何の益もない。(コリントⅠ 13-1)
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
If I speak in the tongues of mortals and of angels, but do not have love, I am a noisy gong or a clanging cymbal. And if I have prophetic powers, and understand all mysteries and all knowledge, and if I have all faith, so as to remove mountains, but do not have love, I am nothing. If I give away all my possessions, and if I hand over my body so that I may boast, but do not have love, I gain nothing.
(コリントⅠ 13-2~3)
どれだけ美しく立派なことを話すかよりも大切なことがあります。
それは、その言葉に愛があるということ。
どれほどの知識や信仰をもっているかよりも大切なことがあります。
それは、その知識や信仰を愛のために活用しているということ。
どれだけの犠牲をしているかよりも大切なことがあります。
それは、その犠牲が愛のためのものであるということ。
つまり、大切なのは、人間のあらゆる活動の動機に愛があることです。
ですから、もし愛がなければわたしの活動には価値がないと、聖パウロは言うのです。
逆に、愛があればどんなに平凡で小さなことにも価値が生まれます。
わたしたちのたった一言、小さな行いは、愛によってのみ活かされるのです。
このことを誰よりも深く悟ったと言われる聖人がいます。小さき聖テレジアです。
彼女は、24歳の若さで修道院のなかで亡くなった人です。
しかし、彼女が院長に命じられて書いた自叙伝は、その死後公開されるや、キリスト教国で大ベストセラーになりました。
彼女は自分の悟ったものを、その自叙伝にこう書き残しています。
「わたしは悟ったのです。愛は、ありとあらゆる召しだしをふくみ、愛はすべてであり、愛はあらゆる時代、あらゆる場所を包含する、ひとことでいうならば、愛は永遠である、と。
(中略)わたしの天職、ついにわたしはそれを見つけました。わたしの天職、それは愛です。
(中略)あなたにわたしの愛をあかすために、わたしは花びらを投げるよりほかに方法がありません。それはつまり、どんな小さなぎせいも、一つのまなざし、一つのことばものがさずに、いちばん小さなことをみな利用して、それらを愛によっておこなうことです」
(『小さき聖テレジア自叙伝』原稿B第2部)