祈りの小路

祈りの小路~祈り以前の祈り 

 

 何事のおわしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる   (西行)

どのような神様がいらっしゃるかわからないが、ありがたさで涙がこぼれてしまうという意味の歌です。

神々しさにうたれて、思わず手を合わせてしまう、日本人の自然な宗教心を表現したものといえるでしょう。

西行ほどの感受性でとらえることはないにしても、人間を越える存在を意識し、畏敬の念にとらえられたり、かしこまったりするのは誰にでも起こりうることでしょう。

特に幼少の頃の素直さは、神様を信じるのに何の障害もないかのようです。

思い起こせば、私もそうでした。父母は神社に行けば賽銭を投げて手を合わせ、寺院に行けば仏像を拝む、ごく普通の日本人でした。

当然、幼い私もそのまねをするのに抵抗のあろうはずがありません。家には小さいながらも神棚がありました。

その神棚には「神さん」がいるのだと教えられれば疑いませんでした。時折父母がその前で手を合わせて拝む姿を見たり、備え物の食物や酒を代えたりするような時には、「神さん」って偉いんだなと思わざるを得ません。

それ以外は宗教心のないような両親でしたが、「そんなことをしたら天罰が下るぞ」とか「願いごとをしたらかなえられる」とかいうということは何度か聞かされたように思います。

ある嵐の日の夕方、仕事に行った両親が帰って来れなくなったのだと心配して、独り神棚に手を合わせていたことを覚えています。

それが何の神様か知りもしませんでしたが、「神さん」は恐ろしくもあり、頼もしくもある不思議な存在として漠然と幼い心に宿っていたのです。

小学一年生教室の六歳、七歳の子供たちも、神様がおられることは素直に受け入れられます。

学校で宗教の時間に子供たちは、いろいろなことを神父様から習います。イエスさまのこと、マリアさまのこと、旧約聖書の様々な紙芝居やビデオ、そしてお祈りの数々。それらは新鮮な驚きとともに気高い宗教心を彼らに呼び起こすのかも知れません。

彼らの心はやわらかなスポンジのように、神様のことをたっぷり吸収します。場合によっては、自分の両親も知らないことを習い、家に帰って教えてあげることもあるそうです。

信者でない母子の会話です。子供がお母さんをまっすぐ見て、突然聞いたそうのだそうです。

「お母さん、お母さんは独りぼっちって思ったことある?」

お母さんがどう答えたらよいか思案していると、その子供は言いました。

「お母さん、僕達にはいつも神様がついていてくれるから、独りぼっちじゃないよ」

大人は目に見えないものを信じることがなかなかできませんが、子供は信じているものを見ることができます。

大人は信じることの窮屈さや義務を素早く計算してしまいますが、子供は信じることの楽しさや自由を味わいます。

子供のような心があれば、神様を認め、神様と話をすることができるのです。