祈りの小路

祈りの小路~神様と何を話すのか

 

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ (俵万智)

歌人の俵万智さんは、学生時代、家族にあてて、三日に二枚というくらい、せっせと葉書を書いたそうです。

「東京に出てきてからの一人暮らし。寂しくてしかたがない。

家族とのなんてことない日常会話が、突然なくなってしまったことが、一番こたえる。

朝起きて『おはよう』と言う人がいない。『今日こんなことがあってね-』と無駄話をする人がいない。そういうものの良さはなくなってみてはじめてわかる。

葉書はいってみれば日常会話の代りとして書きつづけられたのだと思う」(俵万智著『短歌をよむ』)

たとえ無駄話のように思われても、会話は心と心をつなぎます。

相手が愛と理解を示してくれるのなら、家族間の会話、友人同士のとるにたりない会話に、人はほっとやすらぎを感じるものです。

互いに愛しあう恋人たちの会話の内容と言えばないに等しいものかもしれません。

でも、見つめ合うだけで、立派に心と心は響き合い、互いに愛し合っていることを知ることができます。

そして、いつも同じような言葉を繰り返して、互いの愛を確かめ合い深め合うのです。

私達と神様の語り合いも、人間どうしの会話に習うことができます。

「『祈るとは、神と語り合うことですが、一体、何についてお話すればよいのでしょうか』とあなたは問う。

何についてかと言えば、主について、そしてあなたについてである。すなわち、喜びと悲しみ、成功と失敗、気高い理想と日々の悩み‥‥弱さ、感謝と願い、愛と償いなどである。

一言で言えば、主を知りたてまつり、あなた自身を知ること、つまり主と『つきあう』ことである」(聖ホセマリア・エスクリバー著『道』91)

念祷で神様と話をするからといって、何もかしこまる必要はありません。

美辞麗句を重ねることに気をとられたり、適当な言葉捜しにあくせくしたりすることもありません。

単純率直に、心にあることをそのまま話せばよいのです。子供が父親に、あるいは友達に話すような気やすさで、語りかけるのです。

たとえば、こんなふうに‥‥‥。

神様、今日こんなことがあってね。‥‥‥思わず笑ってしまいました。

神様、今日はちょっといやあ気分ですよ。友達とけんかしたんです。考えてみると、ぼくが悪かったのかなあ、やっぱり。どう思いますか。

神様、試合に負けました。口惜しいです。でも、ベストは尽くしましたよ。

神様、今日のテスト、うまくできましたよ。昨日がんばったかいがありました。あなたは、助けてくれましたね。ありがとう!

このように神様との「つきあい」を日常的に続けていくならば、神様は私達のもっとも良い友であり、父親であり、愛と理解を示してくださる方であることが、少しずつ実感できるようになるでしょう。