学校でクラスの子供たちと、口祷の祈りを唱える機会はいくらかあります。
朝の始業前の「めでたし(天使祝詞)」または「御母マリアへの祈り」、昼のお告げの祈り、そして「食前、食後の祈り」、下校時には再び「めでたし」と‥‥。
各教室にはマリア様のご絵が飾ってあります。子供たちは起立し、目と心をマリア様の方に向けて唱えるように教えられます。
でも、二十人も三十人もいる子供たちの皆が皆、祈りの間じっとしているはずがありません。
視線は窓の外にあったり、首や足がグラグラと動いたりと落ち着きません。
だいたい、彼らをまるで監視しているかのような私の方が心を神様から離しているのです。反省することひとしおです。
口祷とは何でしょうか。
また、どのように唱えればよいのでしょうか。
口祷とは、ある定まった言葉を口に出して唱える祈りのことです。
それに対し念祷は、口祷のように必ずしも決まった言葉を唱えるわけではなく、神と自由に語り合う、あるいはただ見つめ合う祈りだと言えましょう。
口祷にはたくさんの祈りがあります。
イエスさまが教えてくださった「主祷文」、また聖母マリアが天使ガブリエルと聖エリザベットから聞いた「天使祝詞」、あるいは教会が作った「栄唱」など、また聖人たちが作った美しい祈りの数々。
中でも「主祷文」は、弟子の一人が「主よ、祈りを教えてください」(ルカ11-1)と願ったとき、イエスさまが教えてくださった唯一の祈りですから、それ自体完全な祈りだと言われます。
ただ、いかに価値の高い言葉が並んでいる祈りであっても、心が神様に向いていなければ何の役にも立ちません。
そして口祷は、念祷のように自分が神様の御前にいることを自覚し、心を神様に上げることによってのみ、祈りとしての価値を増します。
厳密に言うと祈りは一つ、つまり口祷の祈りは念祷の一つの形なのです。
人々に神様との親密な交わりを教えたいと望んでいた聖テレジアは、こう言っています。
「わたしはいつもあなたがたにお勧めします。口祷と念祷を合わせるようにしなさい」「口で祈りを唱えながら、相手のお方である神様のことにまったく気をとられ、ことばそのものよりも、神様のほうにもっと注意が向いているならば、その口祷には念祷が伴っているのです」(聖テレジア著『完徳の道』22章)
そして、聖テレジアのこの精神に倣って、聖ホセマリア・エスクリバ-も言います。
「だれが、どなたに、なにを申し上げているかを考えながら、ゆっくりと祈りを唱えよ。考えるひまもないほどあわてて唱えても、それは空かんをたたいているに等しい。いくら口を動かしても祈りにはならない、と大聖テレジアと共に私は言う」(聖ホセマリア・エスクリバ-著『道』85)
みじめな被造物に過ぎない私が、全能の神でありこの世の救い主でもあるお方に向かって語りかけているということ。
何を、何のために、お願いしているのかということ。 それらを考えながら、心を落ち着かせて、ゆっくりと唱えること。
口祷の祈りは、このようにして価値あるものになっていくのです。