祈りの小路

祈りの小路~決心を立てる

祈りを通して、神様は私達に様々なことを示してくださるでしょう。

たとえば、日常生活の中での私達の至らなさ。仕事をていねいに最後まで果たそうと思っていたにもかかわらず、手を抜いてしまったこと。友達や同僚とにもう少し親切しようと心がけていたのに、つっけんどんな応答をしてしまったこと。決めていた勉強の時間を好きな娯楽のために遅らせてしまったことなど、いろいろあるでしょう。

自分の弱さや過ちを見せていただけるのは、祈りの効果です。

神様のみ前で私達は、一体どのような者だというのでしょう。

自分の思いや行いを謙遜に突き詰めて糾明するならば、罪のゆるしを請うあわれな被造物に過ぎないことに気づくはずです。

「私は罪人を招くために来た」と言われた主イエス・キリストは、私達が自分の過失や罪を認め悔い改めることを望んでおられます。

祈りにおいて、神様は私達の改めるべみ姿に気づかせてくださるのです。

自分のあわれな姿を見たからと言って、がっかりすることはありません。神様は私達を落胆させようと思っていらっしるのではなく、私達を天の国にさらにふさわしい者とせんために見せてくださるのです。

ですから、神様が私達に示してくださった欠点や弱さは、私達がその気になって戦えば克服できるであったり、戦うことによって私達を高めるものだからです。

「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 」(コリント12章9)

聖パウロは、自分の弱さを羞じませんでした。もしろ、それを利用し、戦い、神様にもっと信頼することを学んだのでした。

それに対して私達は、自分の生活や自分自身を改善するために、具体的な決心を立てる必要があります。

「聖人になりたい」という希望は立派ですが、それは決心とは言えません。聖人になるために、今日から何をするのか考え、具体的に決めることが決心です。

たとえば、「念祷を毎日15分しよう」とか「福音書を毎日1章ずつ読もう」とか「霊的読書を毎日10分しよう」とか「寝る前に良心の糾明をしよう」とか「ロザリオの祈りを唱えよう」とか、すべきことはたくさん見付かるはずです。

しかし、たくさんの決心は不要です。普通、私達はいっぺんにたくさんの新しいことができないからです。

数少ない具体的な決心にしぼり、まず1つに集中した方が賢明です。その決心が達成できたら、別の決心に取り組みます。そして、また次の決心に取り組みます。

こうして、一つずつ着実に「聖人になりたい」という希望を現実化していくのです。

また、今の自分の実態とかけ離れている到底できそうもない決心も役に立ちません。

たとえば、中高校生が義務であり祈りともなりうる勉強の時間を割いて「これから毎日1時間の念祷をしよう」と考えるのなら、それは誤っています。また、主婦が、家事や育児を放棄し「毎日、友達の家を訪問して神様の話をしよう」と考えるのも馬鹿げています。

「決心は少しでよい。実際的な、あるいは、『現実に即した』決心をたてなさい。そして、神の御助けを支えに必ず果たすのだ」(『道』249)

さて、あなたは、神のみ前でどのような決心をされるでしょうか。