大きい方が価値あるものだと、思われがちです。
本当にそうでしょうか。
大きさよりも大事なものがあるのではないでしょうか?
大きいことはいいこと?
子供の頃、「大きいことはいいことだ」というチョコレ-トの宣伝がありました。
「大きいことはいいことだ」‥‥‥そのコマ-シャルに乗せられて、何度その商品を買い、得をしたと思ったことでしょう。
しかし、今はそれほど単細胞ではなくなりました。
庶民の習いか「大売り出し¥198」とか「大特価¥98」という値札に自然と目が向きます。
さらに包みに印刷されている文字、「ミルクがたっぷり」「芳ばしいア-モンド入り」などを見て品定めをし、結局「安くて、おいしそうなもの」を選びます。
値段はさておき、品物の大小よりも「質の違い」を見ること。それは食品類に限りません。車、本、家具、文具などもそうです。
よくよく見れば、小さくても品質の良い物はたくさんあるのです。
また、「大きいことはいいことだ」は、人物についても言われます。
その証拠に「あなたは小物だ」と言えば、悪口にとられますが、「あなたは大物だ」は誉め言葉になります。「あなたは将来大物になる」と言われて、気を悪くする人はほとんどいないでしょう。
「大物対談」などと言われて登場する人物は、一般に世に聞こえた傑物のようです。
一流企業のトップであったり、大臣歴任者であったりします。
しかし昨今、「大物政治家」や「大物官僚」や「大物企業家」のいくらは、「悪の大物」として世間を騒がせるようになりました。
「大物」は、その社会や組織の実力者でしょうが、それだけで「立派な人」だとは言い難いようです。
その人が真に偉大な人物かどうかは、影響の大小よりも「社会にどのようなよい影響を与えたか」ということによって決まります。
その人が「どれだけすぐれた人間性をもっていたか」という方が重要なのです。
物も人物も行為も大小だけで価値は決めらない
さらに「大きいことはいいことだ」は、行いにもあてはめられるものです。
一般に大きく社会に貢献した仕事は、どのような分野であれ誉め称えられます。多くの人々に福利をもたす行政。会社の業績を伸ばすための大ヒット企画。
野球でも、大きな当たりはホ-ムランとなります。
しかし、行いについてもやはり、その質や方向性が問われるべきです。
野球での大当たりはラインから数センチでもずれれば、ファ-ルでしかありません。それと同様に、行いの目的がよくなければ役に立たないものになることもあります。
たとえば、人を大量に殺すために作られた兵器が、すばらしいものだと言えるでしょうか。自己の利益だけを追求してなされる仕事に、一体どんな価値があるのでしょうか。
もしもそのために、多くの人を犠牲にするのであれば、また不正な行為であれば、罪に問われることもありうるのです。
物も人物も行為も、いちがいに大小だけで価値は決められません。
ましてや、無限の神さまにとっては、すべてが、この地球でさえも小さいのですから、人間の目から見た大小の違いは問題になりません。
神様の関心事は・・・
では、人間の行いを見られて神さまが最も関心があり、価値をおかれていることは何でしょうか。
それは、人が何をしたかということより、どのような心をもってしたのか、ということです。
どんな小さな行いでも、愛をこめてなされたことであれば、神さまはお喜びになります。
たとえ人からは感謝されなくても誉められなくても、日常の目立たない仕事や雑事を精一杯の愛をこめて行うこと。
神さまはそのような行いを何よりも大切に思われているのです。
マザ-・テレサは、繰り返し言いました。
「大切なのは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです」(『マザ-・テレサのことば』)
日常生活の中の小さなことであっても軽んずることなく、どれだけ愛をこめられたが、大切なのです。