普通の家庭で、起こりそうな小さな出来事です。
「灰皿」事件。
始めのケースと後のケースを比べてみてください。
自分の落ち度を認めると・・・
朝、学校に慌てて出かけようとする中学生の子供が、灰皿をひっくり返しました。
「あっ、なんだよ。お母さんが片付けないからだよ」
それを聞いて、朝食の片付けをしていた母親が口をとんがらかして言いました。
「お父さんが、夕べから出しっぱなしにしているからですよ」
すると、ようやく身仕度の整ったお父さんが、お母さんと子供を交互に見ながら言いました。
「気がついてたら、片付けといてくれてもいいじゃないか。だいたい、お前が慌てて行こうとするのがいかん」
「そうよ。勉強もしないのに夜遅くまで起きているから、朝寝坊するのよ‥‥」
「あ~あ、また説教か。それ聞いてたら遅刻するよ。お母さん、あと頼むね」
玄関で靴をひっかけるようして履き飛び出して行く息子を見ながら、両親は溜め息をつくのでした。
「やれやれ、またか」
こうして、この家族は三者三様互いに嫌な気分で一日を始めることになります。
どうして、こんなことになったのでしょうか。
三人とも自分のことはさておき、相手の非を責めることを言ったからでは?
確かに息子には非があります。
そして母親、父親にも思慮の深さが足りなかったと言わざるを得ません。
三人ともそれを認めず、他の人を非難し合うだけでした。
もし、このうちの誰かが他の二人のことを非難せず、自分の落度を先に認めていたらどうでしょう。
自分の落ち度を認めると・・・
「あっ、ひっくり返しちゃった。ごめんなさい」
「あら、その灰皿さっきから気になってたのよ。お母さんが片付けておけば良かったわ」
それを聞いてお父さんは、「いやいや、すまん。自分が、片付けるべきだったよ」とは言わないにしても、(置きっぱなしにしたのはまずかったな、これからは気をつけよう)と考えるでしょう。
こうなれば、互いに非難し合い、傷付け合うことはありません。
むしろ、自分の落度を謙虚に認める家族の態度に、敬意を抱くかもしれません。
そして、この小さな「灰皿事件」から、この三人は家族の絆をよりいっそう強めることもできたのです。
「ごめんなさい」で、良い関係を取り戻す
「ごめんなさい」のたった一言が、よりよい人間関係を作ります。
それは、神様と私達人間の関係についても言えることです。
「ゆるしの秘跡」で私達カトリック信者は、自分の罪を告白し赦されます。
しかし、自分の非を謙遜に受けとめてそれを口に出すのは、実際どれだけやっかいで難しいことでしょう。
その難しさを一番良くご存じなのが、神様だと私は思います。
「打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51・19)
神様は、私達の罪を「ゆるしの秘跡」を通してすべてゆるしてくださいます。
よりよい人間関係に必要な「ごめんなさい」という一言は、神様との関係をよりよいものにする一言なのです。