「なんだ?これは‥‥」
ある日、わが校の聖堂に通じる廊下を通っていると、本棚に、手の平ぐらいの立て掛け式の額がおいてあるのが目に止まりました。ガラスの部分が点々と茶色に汚れているように見えます。
「ん?」
よく見るとその点々の下に、文字を書いた小さい紙が貼り付けてあります。
言葉はからし種
「イスラエル産からし種」
なんと、その汚れみたいな点々は、イエスさまのたとえ話に出てくるあの「からし種」だったのです。
「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」(マタイ13-31~32)
確かに小さい種です。そこらへんに散らばっているチリと見た目は変わりません。こんなものが成長するのかな、しかも「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」まで‥‥。
一体どんな木になるのだろうと思っていたら、ある日、学校の校庭の斜面にからし種の木が植えられていました。なんだか草のような弱々しさです。
しかし風雨にも耐え背丈を伸ばし、夏なると黄色い花を枝いっぱいに咲かせました。
そして、今や私の背丈をはるかに越えています。
あんな小さなチリみたいな種でも、成長すれば見違えるほど大きくなるのです。
イエス・キリストが話された言葉の一つひとつは、まるでからし種のようだと私は考える時があります。
聖書を読む
洗礼を受けて以来十八年間、聖書を毎日読むことを日課としてきました。といっても、一日に三分程度のわずかな時間です。
しかし、そのわずか三分、わずか数行の聖句が、どれだけ一日の心の糧となり力となったかしれません。
「人を裁くな。‥‥あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」(マタイ7-1~3)
人を批判したくなる時、私はこの言葉を思い出しました。そのおかげで、どれだけ生来の短気を押さえることができたでしょう。
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6-31)
人には要求するのに、自分はしてあげてないことがあまりにも多いことを、この言葉は私に教えてくれます。せめて挨拶ぐらいは自分の方からしようと思うようになりました。
このような個人的な例は、枚挙にいとまがありません。
ところで、イエス・キリストは、「種をまく人」のたとえで言われました。
「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった」(マタイ13-8)
種が実を結ぶかどうかは、土地の状態にかかっています。イエス・キリストの御言葉を読んで、あるいは聞いて何を悟るかは、その人の心の状態によるのです。
「良い土地」でありたいものです。