戦国時代、大分市に「日本初の西洋式病院」ができました。
創った人は、貿易商人として日本にやってきたルイス・デ・アルメイダ(一五二五年~一五八三)、戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人です。
大分県庁前の遊歩公園には、西洋医術発祥記念像があります。像は、アルメイダが日本人の助手と共に右足の手術をおこなっている場面を表しています。
アルメイダが、私財を投じて乳児院や病院を作り、自ら奉仕したのは、なぜでしょう。
貿易商人、乳児院をつくる
戦国時代、大分市に「日本初の西洋式病院」ができました。
創った人、ルイス・デ・アルメイダは、医師でしたが、一九五二年、貿易商人として日本にやってきました。
そして、日本との交易で多くの財をなしました。
母国に帰れば、一生遊んで暮らせるほどの大金持ちになったでしょう。
そんなアルメイダが、なぜ日本に病院を作ったのでしょうか。
また、一儲けしようと欲を出したのでしょうか。
はい、そうではありません。全然違います。
彼が病院をつくったきっかけは、実にショッキングなことを見たからです。
それは、赤ちゃん殺し(間引き)です。
これは当時の日本で広く行われていたことで、貧しい家の人々が、口減らしをするために生まれて間もない赤ちゃんを殺す風習でした。
たまたま、ある川で泣き叫ぶ赤ちゃんが親から殺される場面を目撃したアルメイダは、衝撃をうけます。
そして、悩んだ末、一大決心をするのです。
「殺される子を引き取って育てよう」
そのために、豊後府内(大分県大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てたのです。
乳児院では、2頭の雌牛を飼って貧しい子供たちに牛乳を飲ませて育てたといわれています。
日本初の西洋式病院をつくる
けれども、彼らを取り巻く大人たちも、貧しさや医学的知識の不足から病気になり、悩みを抱え、苦しんでいました。
そこで、彼はまた一大決心をします。
「自分の生涯を捧げて、奉仕しよう」
彼は1556年、自分の富をすべてイエズス会に寄付し、修道士となります。
さらに、豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、
1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てます。
これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所です。
病院には、日本最初の医学校も併設されていました。
病院では、日本で最初の外科手術が盛んに行われたほか、食事療法の生活指導や巡回治療も行われました。
アルメイダは、病気で苦しんでいる人々や貧しくて治療を受けることができない人々を救いたいという気持ちが強く、とてもやさしい人でした。
その噂は、九州はもとより遠く各地に広まり、多くの患者が訪れていたと当時の記録は伝えています。
アルメイダは、1580年マカオにわたり司祭となり、その後日本に戻り布教・医療活動に専念しますが、1583年10月に天草河内浦(熊本県天草市)で没しました。
冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、修道士、司祭としても、日本で、貧しい病人や乳児に奉仕しました。
イエスの「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22-39)という教えを行いに表して生涯を全うしたのです。
【参考文献】「大分市医師会立アルメイダ病院」HP