死後、神様から時間のやり繰りについて決算報告を求められた時、私たちは何と答えることができるでしょうか。
それについて考えていきましょう。
時間の決算報告を求められた時
神様の問いに、「はい、私はお与えくださった人生という時間をこのように活用しました」と自信満々の人もいるでしょうし、うつ向いて何も言えない人もいるでしょう。
言葉が真実と合わないことも少なくはなく、前者が後者よりも優れているとは断定できません。
その人が、どれだけ謙遜で誠実に自分を見つめているかによって言葉はかわります。
また、その言葉がどれだけの真実を語っているかは、当の本人でさえ把握できないこともあります。
ところが、全知である神は、私たちの報告を聞くまでもなく、私たちのすべてをご存じです。
神は私たちの一生がどのようなもので、与えた時間をどのように使ってきたのか、すべてご存じなのです。
ですから、私たちの死後待っている私審判という決算報告会で、私たちがどのように与えられた時間を活用してきたかは、言葉ではなく私たちの人生すべてで判定されることになるでしょう。
この時私たちは、自分の人生のすべてを、記憶のはるか彼方にあったことさえも、眼前に示されると言います。もはや言い逃れや誤魔化しは通用しません。
十人の乙女のたとえ話
ここで思い出すのが、福音書に出てくる十人の乙女のたとえ話です。
「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで五人賢かった。
愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが油の用意をいていなかった。
賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。
ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは、皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは賢いおとめたちに言った。
『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです』。
賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店へ行って、自分の分を買って来なさい』。
愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意できている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
しかし、主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(マテオ25-1~13)
この話に出てくる「花婿」は「イエス」、「おとめ」は私たち「信者」のことです。「ともしび」は「信仰」、「油」は「愛と善業」、「婚宴の席」は「天国」だと解釈できます。
イエス・キリストが来られる時はいつか分からず、たとえ「信仰」を持っていたとしても、心細かに「愛と善業」を積んで携えていなければ、「天国」の席はありません。
ですから、常に時間を無駄にすることなく、十分な準備をしておくようにとイエス・キリストは私たちを戒められたのです。
決算報告会で神様を喜ばせる
「愚かな乙女たちが、何もしなかったわけではありません。少しは努力したのです。しかし、聞こえてきたのは、『わたしはお前たちを知らない』という厳しい返事でした。
‥‥前もって油を買い入れておくという当然の用意を怠りました。わずかなこととはいえ、依頼された事柄を最後まで仕上げるという寛い心を持ち合わせていなかったのです。
時間は充分あったにもかわらず、活用しなかったのです」(聖ホセマリア・エスクリバー著『神の朋友』41)
私たちは、準備と警戒を怠りなく行い、賢明に時間を活用していければと思います。
そして決算報告会で、神様を喜ばせることができれば、どんなにすばらしいことでしょうか。