あるところに賑やかな繁華街があります。
昼間はひっそりとしていますが、夜になると酒場やバー、ゲームセンターなどのネオンや明かりが賑やかに通りを彩ります。
そして、どこからともなく多くの若者や仕事帰りのビジネスマンが集まってきては、深夜あるいは明け方まで時を過ごすのです。
勉強をするなら誘惑となる物や機会を遠ざける
その近くに大手予備校がビルを構えました。が、地元の人の話によると、業績は今一つのようです。
設備も講師陣も立派なのに、同系列の他地域の予備校と比べて振るわない第一の原因が、その立地条件にあるのは誰の目にも明らかです。
私が予備校生だったら、勉強の息抜きとかなんとかもっもらしい理由を見つけて、帰りがけにふらっと立ち寄りってしまうことは十分考えられます。
たとえ良いものであっても、勉強や仕事をする時に、身近に置いておくと妨げになるようなものがあります。
例えば、テレビ。近くに置いていると、何となくスイッチを付けてしまい、ついつい見てしまい、時間を潰してしまうものです。
漫画本やスマホなどについても同じことが言えるでしょう。
また勉強や仕事に不要な本も、誘惑の機会になることもあります。
試験前になると、妙に本が面白かったという経験はありませんか。思わず度を過ぎて読んでしまい、試験勉強が全く進まなかったことが私にはよくありました。
ですから、ある目的のために時間を使おうと決めたら、邪魔になりそうな物は近づけないか、誘惑になりそうな機会や場所を避けた方が賢明です。
聖ヨハネ・マリア・ビアンネの話
十九世紀、フランスの片田舎のアルスという村を国内全土や国外からも人々が大挙して日参する巡礼地と変えてしまった聖人がいます。
その人、聖ヨハネ・マリア・ビアンネは、ただの主任神父に過ぎませんでした。
彼がその村に赴任した時、フランス革命の影響もあり、人々はひどい不信仰に陥いっていました。日曜日なのに平然と教会に行かない村人は大勢いたのです。
彼はその悪習の原因が、日曜日ごとに行われるダンスや街の酒場であることを知り、激しく糾弾しました。時には、涙をぼろぼろ流しながら村人に訴えたのです。
「私の兄弟たちよ、私はどうして泣かずにおられよう。地獄はあるのです。それなのにあなたたちは少しも注意しない。
あなたたちは、そこにやられるような暮らし方をしている。居酒屋で夜更かしをする。ダンスの罪に汚れた快楽をむさぼる。‥‥あなたたちは、神のみ旨にそむくことばかりしているのだ。
あなたたちが地獄に投げ入れられるのを、あなたたちの神父が黙って見ているとでも思いますか!」
当然ながら、あまりにも厳しいとの反発を買いましたが、心から村人の救霊を望む神父は少しも怯みません。
常人では真似ができないほどの多くの祈りと犠牲を捧げ続け、村人の信仰を回復しました。それには十年もの歳月を要したそうです。
私たちは自分の信仰生活を振り返り、時々糾明してみる必要があります。
それ自体は良いものでも、祈りをするときに気を散らしたり、邪魔になったりするものはないでしょうか。
祈りを怠る理由や言い分けとなっているものは、ないでしょうか。まんまと悪魔の誘惑にのってはいないでしょうか。
「道は、はっきりしている。道によこたわる障害もよくわかっている。障害を克服する武器もすばらしい。
それにもかかわらず、なんど道をふみはずし、なんどつまずいたことか。そうだろう?
あなたにも私にもわかっているあの細い糸、実は鉄の鎖をあなたは切りたくはなさそうだが、それこそ道をふみはずさせ、つまずかせ、倒すもとなのだ。
何をぐずぐずしているのか。早く糸を断ち切れ、そして前進するのだ」(聖ホセマリア・エスクリバー著『道』170)